祇園祭2011

祇園祭

行事 鉾建て 曳初め 祇園祭マップ 山鉾 屏風祭
宵山 日和神楽 山鉾巡行 花傘巡行 お神輿 お稚児さん

祇園祭では、「山」や「鉾」と呼ばれる山車が計32基登場します。
それらは中世の欧州や中国、シルクロードから伝えられたじゅんたんやタペストリー、
西陣織等で飾られ、「動く美術館」とも呼ばれます。


※山鉾の名前をクリックすると詳しく表示します ※▲は休み山です。
祇園祭


「平成女鉾」とは

祇園祭への参加を目指し、1996年に誕生した女性だけの囃子方による「平成女鉾清音(さやね)会」。八坂神社より櫛稲田姫命をご神体として迎え、函谷鉾の囃子方の指導のもとで、日々練習を重ねています。
「平成女鉾清音会」は50余人の女性囃子方を中心に、祇園祭参加を目指し、日々練習を重ねています。
従来の「町」単位ではなく、祇園祭を愛する誰もが参加できるコミュニティで支えられています。

平成女鉾 平成女鉾 平成女鉾


「休み山」とは

天明、幕末の大火によって、その山や資料を焼失。
財政的、人員的な理由等で復活・運営が困難で、現在は巡行には参加せず、
焼け残った懸装品を飾りながら出番を待ち続けています。


布袋山    

お飾り:7/1~/17
かつての山がどの様な形態であったかは現在のところ不明ですが、『祇園祭礼巡行図巻』によると、布袋さんのかぶり物で巡行に参加している様子が描かれているそうです。
噂によると、いつかその布袋さんの巡行参加を復活させようという動きがあるとか...?
7/1~/13は山に関連するもの、7/13~/17には布袋像と二童子が飾られます。
近年、布袋山の護符の版木が確認されました!
布袋山

大船鉾    

お囃子:7/13~/16
かつて後祭のトリを務めていたといい、その形は御神体の神功皇后の出陣神話に由来しています。現存する船鉾「出陣の船鉾」に対して「凱旋の船鉾」と呼びます。
『増補祇園会細記』によると船首には龍の頭を飾っていたとか。
10年程前から、町内の若手からの希望により、岩戸山の指導のもとでお囃子が復活しています。
現在居祭は行っていないため焼け残った懸装品と神面等は見られませんが、お囃子は池坊学園、新町四条下ルの京都友禅ビル1階駐車場にてを聴く事ができます。
安産のお守りである腹帯も授与されます。
ホームページはこちら

NEWS(2011/6/8)
復興に向けて動きだした「大船(おおふね)鉾」の製作が始まっている。骨組みに当たる「櫓(やぐら)」と囃子(はやし)方が乗る「船」で構成する胴体部分の原寸大模型が既にできあがり、実際の巡行に使う胴体も9月に完成する予定だ。1864年の蛤(はまぐり)御門の変に伴う大火で焼失してから150年となる2014年ごろを目標に巡行復帰を目指す。
大船鉾の製作は京都市内の工務店で進められ、胴体は全長約6・5メートル、最大幅約3・3メートル、櫓に組む「船」の舳先(へさき)までの高さ約4・8メートル。ヒノキ材を用い、現在巡行している船鉾より一回り大きい。
 直線的な部材の多い他の鉾と違い、曲線の部材を多用する「船」の製作が難しく、まず原寸大模型を作った。
 胴体は完成後、下京区の京都ヨドバシビル内に展示する。船に載せる「屋形」は史料や専門家の意見を参考に形を検討し、できあがった順に展示する。(京都新聞)

大船鉾
舳先に飾られていた大金幣
大船鉾の舳先にはこの大金弊、もしくは龍頭(焼失)が飾られていたといいます。
かつて現在の四条町を南北に分けていた「北四条町」と「南四条町」が隔年で祭を行っており、この金幣は南四条町の時に掲げられていたそうです。
大金幣
刺繍の楫(かじ)
これらの金幣と楫等の懸装品は、かつてさくら銀行で飾られていましたが、その展示室が無くなり現在は京都府立資料館に保管され、居祭りの復活を待ち続けています。 平成19年2月、現存する大舩鉾の懸装品の大部分が京都市指定の文化財となり ました!
楫(かじ)

鷹山    

お飾り:7/15
「鷹匠」「樽負」「犬飼」の御神体が並んで飾られます。
この「鷹匠」と「犬飼」は、源頼朝、もしくは在原行平と言われ、真ん中の「樽負」は粽を食べているという、ユニークなもの。

『細川家絵巻』によれば、屋根が無く、かなり大きな曳山だったようです。
「太郎山」「樽負山」とも呼ばれ、樽の中の御神酒(ご神水?)には疫病退散の力が宿っているのかもしれません。
寄付された見送「染彩猛禽之図」は皆川月華の作。

お囃子を伴う大型の曳山だったが元治の大火(1864)でほとんどのものを焼失。
  • 住所:中京区三条通室町西入衣棚町
大船鉾


復活した休み山「綾傘鉾」

元治元年の火災で焼失。天保5年に小型の鉾に改造されて巡行に参加。
明治12年から17年まで徒歩囃子の形で巡行しましたが、その後途絶えていました。
昭和48年頃から復興の声が再び上がり、町民と壬生六斎会の支援で昭和54年に復活を遂げました。