清水寺

清水寺特集


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「観光地、有名どころはもう行ったよ」と侮るなかれ。あなたの知らなかった清水寺の姿をここに公開します。

清水寺境内

本堂内
本堂
「起り反り(むくりそり)」と呼ばれる檜皮葺の屋根は、上は凸型、下は凹型の曲線を描きます。約50年ごとに葺き替えられています。

[ワンポイント]
清水の舞台を通り過ぎ、地主神社が視界の左手に入る頃の階段のところで本堂の壁を振り返ると、深い溝がたくさん刻まれています。まるで爪跡のように本堂を一周しています。これは電灯が無かった昔に夜な夜な清水寺へ「お百度参り」をした人々が、暗い夜道を壁を辿って歩いた跡なのです。清水寺への厚い信仰心が伺えますね。「同じ事を繰り返し続ける」という意味の「堂々めぐり」という言葉は、「お堂の周囲を何度も回る」ことからが生まれたのだそうです。
清水の舞台(国宝)
京都市街を見渡す眺望が人気で、清水寺の顔とも言えるスポット。檜板張り、柱は欅(ケヤキ)で高さ約13メートル、幅約18m、奥行き約10m。平安後期の12世紀初めには、懸造(かけづくり。一部分を張り出した造り)の舞台になっていました。思い切って物事を決断する様を表す言葉「清水の舞台から飛び降りる」は有名で、実際に飛び降りた人も多数に上ると言います(真似してはいけません!)。



[ワンポイント]
清水寺の七不思議⑦清水の舞台(樹齢400年を越すケヤキの大木が、長短48本に貫(ぬき)を通しただけで、釘を使わずに組み立てられている)それなのに、地震が起きても崩れていないのが驚異的です!
「舞台」という名の通り、御開帳などの特別な法会の際には、この清水の舞台で能や狂言、雅楽等を奉納します。両袖の翼廊は楽舎です。舞台からの眺望は、実に絶景。
なぜせり出した舞台ができたのか?観音信仰が人気を呼び、多くの人が清水寺に押し寄せてくるようになったから。平安時代より参詣者の増加と共に拡張し、中空にせり出す程に。
清水の舞台から人が飛び降りるようになったのはいつ頃から?江戸時代頃からと言われています。「飛び落ち」と言われ、何日も続けて本堂の観音様に願掛け詣りを繰り返し、満願の日に命を託すつもりで清水の舞台から飛び降り、助かれば願いが成就、死んでしまったとしても極楽に行けると信じて、多い年では7人が飛んだといいます。なお、助かった人は8割以上とのこと。飛び降りを禁止するため、明治5(1872)年に京都府が竹矢来を設置しました。
2005年に清水寺で行われたイベントで、「クリスチャン・ディオール2005秋冬コレクション」が清水の舞台で行われました。


舞台の脚組と光を受けて輝く紅葉も良い被写体になります。斜光が望める午前中の光線を利用しましょう!
礼堂
内々陣に祀られている秘仏の本尊に向かって礼拝する場所。外陣ともいいます。大きな柱はケヤキの木でできています。




本尊御正体
礼堂正面の奥の欄間に懸かっています。御正体とは懸仏(かけほとけ)のこと。本堂に三つあるうち、秘仏の本尊を象ったもので、直径は2mあります。
雷神像・風神像
雷神は須弥壇(しゅみだん)に向かって右、脇侍(きょうじ)の毘沙門天像が納まる厨子の傍らに立っています。風神は左端の地蔵菩薩の厨子の外側。共に天候・気象を司り、風神は青肌、雷神は赤肌をしています。
御本尊御前立
本尊・十一面千手千眼観世音菩薩立像は、内々陣の厨子(国宝)に納められている秘仏であるため、同じ形の像(御前立)がその前に安置されています。十一面(様々な顔・姿)で、私達の苦しみや悩みを観察・同情し、先手(あの手この手、あらゆる無数の手)で救って下さるという御利益があります。一般の四十二臂千手観音像とは違い「清水型」観音と呼ばれる清水寺独特の姿をしています。最上部の左右の肘を頭上より高く上げて小如来像を捧げ持ち、格別の観音力を表現しています。

[ワンポイント]
西国巡礼中興の祖・花山法皇の一千年御遠忌を迎えるに当たり、清水寺をはじめ西国三十三所全札所の全寺院が三年間にわたって御開帳(平成20年9月1日~平成22年5月31日)を開催しています。※清水寺の御本尊の御開帳は平成21年5月31日で終了しました。次の御開帳は24年後だそうです。
十一面は、菩薩の修行の最終の第41~50の十地の階位を登り、仏位に達するまでの修道を表現していると言われています。ゆえに、最上にあるのが「如来相(仏面)」です。
千手の形(印相・いんぞう)やそれが持っている物には、それぞれ御利益があります。例えば向かって右上の、呼び鈴を持っているような手は、「宝鐸手」といい、「妙なる音声を身に付ける」という功徳、向かって左、斧の下方にある瓶を持ったような手は「胡瓶手」といい、「家内和合、親族融和」の功徳があるそうです。また、合掌は「一切衆生が諸仏・菩薩と共に互いにに尊敬・信頼しあうために」、宝鉢を持った手は「托鉢物を分け合い、食・衣をまかなうために」という意味があるそうです。。
千手観音の脇侍(わきじ)は、通常は吉祥天と婆薮仙人(ばすせんにん)ですが、清水寺の場合は、地蔵菩薩・毘沙門天です。これは、坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征討で苦戦した際に、清水寺住職の延鎮上人が、地蔵・毘沙門の両像を造り戦勝を祈誓したため、本尊の千手観音が両尊を戦場に派遣し、田村将軍を応援、勝利する事ができたという縁起によります。
二十八部衆
内々陣の厨子の左右に分かれて並ぶ28体の仏。御前立の左右に立ち、本尊を守護する眷族(けんぞく。従者)です。全て桧材の寄木造り・彩色像です。 本堂内陣を観るなら、「千日詣り」の期間中に訪れましょう。

[ワンポイント]
二十八部衆像は、応仁の乱や災火などで度々損傷・焼失しましたが、その都度、三十三間堂の二十八部衆をモデルに修復・再造されています。
鉄錫杖・高下駄
本堂の西側にあります。山伏が修行に用いた錫杖と高下駄を、大型の鉄製にしたもの。

[ワンポイント]
錫杖の重さは90㎏を越えるといい、力試しとして人気なのだそうです。
大黒天像
本堂の西側にあります。こちらにも御利益を願って手を合わせる人の姿が多くみられます。その黒光りする笑顔は夜間拝観時に見るとドキッとするかも!?

地主神社(重文)
音羽の滝
この音羽の滝の水を飲む事で清水寺の観音と縁が結ばれ御利益があるといい多くの人が列を成して音羽の滝の水を柄杓で受ける姿が見られます。流れる出る清水が寺名の由来で、一度も枯れた事が無いそうです。3本の筧から「金色水」「延命水」という滝水が流れ落ちています。奈良~平安時代の僧・延鎮上人が金色の水の霊夢に導かれて辿り着いた滝なのだそう。古来清めの水として尊ばれ、開祖・行叡居士・開山延鎮上人他の滝行の場であり、お茶の水汲み場でもありました。



[ワンポイント]
それぞれの水に御利益があり、欲張って全ての水を飲むと、効果が無くなってしまうという噂があります。☆滝祠に祀られているのは不動明王や行叡居士です。今でもこれらの像を拝み、水垢離の行をする信者がいるそうです。
音羽の滝の水は日本十大名水の筆頭で、所願成就の祈願水「音羽霊水」として、1本500円で授与されています。列に並ぶ時間が無い人は、これを持ち帰って家族で分け合うのもいいかも!?
塔頭・泰産寺
子安の塔(重文)、錦雲渓
清水の舞台から南側を望むと、紅葉の錦雲渓の先200m程先に子安の塔が見えます。子安観音 (千手観音)を祀り、安産祈願の信仰を集めて来ました。聖武天皇・光明皇后の祈願所とも言われますが創建時は不詳。音羽の滝からは徒歩で2~3分。高さ約15メートル、桧皮葺き。寛永期の再建で、明治末年までは仁王門の左手前に建っていたそうです。 清水寺の塔頭・泰産寺が所有しています。

[ワンポイント]
※現在工事中です。


子安の塔からは、三重の塔や、経堂、田村堂、清水の舞台等を一望する事ができます。人も少なく、清水の舞台をちょっと違った角度から撮るのにおすすめ。
泰産寺は縁結び、安産、子育てに霊験があると信じられ、「結婚相談所」のような存在でもあったようです。
奥の院(重文)
奥の院(重文)
音羽の滝の真上に建ち、元祖・行叡居士と開山・延鎮上人練行の旧草庵跡と伝えられています。本尊千手観音と脇侍地蔵菩薩・毘沙門天、二十八部衆、風神・雷神を祀っています。また昔の真言宗兼学兼宗を伝統して、弘法大師像も奉祀しています。本堂と同じく懸造(舞台造り)になり「奥の千手堂」ともいいます。本堂と同期の江戸時代初期に再建され、随所に桃山様式の極彩色文様の跡を残しています。桧皮葺き屋根が美しい反曲線を描きます。
奥の院本尊(重文)
頭上に二十五面を戴く姿で、鎌倉初期の作として確認されている中で日本最古の三面千手観音菩薩座像です。
濡れ手観音
奥の院の裏側、石の玉垣に囲まれた小池の中に立っている可愛らしい石仏です。音羽の滝の水源に近く、北隣の蓮華水盤で柄杓に水を汲み、観音様の肩からかけて、自分自身の心身の清めと諸願成就を祈願します。台座には「観世水」とあります。
阿弥陀堂(重文)
奥の院の北側にあります。浄土宗の開祖・法然上人が日本最初の常行念仏を修した所で、観音の本地仏・阿弥陀如来像と共に上人の像が安置されています。江戸時代初期の再建で、外陣中央の天井には迦陵頻伽(かりょうびんが)が描かれています。
百体地蔵堂
釈迦堂と阿弥陀堂との間の奥にあります。子供を亡くした親達が、子に似た地蔵を探しあてて厚く崇拝したもの。夏の地蔵盆会の際には賑わいます。
釈迦堂(重文)
阿弥陀堂の北側にあります。須弥壇上に天台宗本尊・釈迦如来像があります。堂内奥中央には朱漆塗り円柱の来迎柱、長押(なげし)、貫(ぬき)は極彩色で彩られ、鏡天井には遊飛する天女が描かれています。北隣には西向地蔵堂があります。
轟門(とどろきもん)(重文)・轟橋・廻廊
江戸時代初期に再建。妻や天井の構造は東大寺転害門を縮小して写しています。「普門閣」の扁額は月舟禅師(1618~96)の名筆。 左右両脇に持国天像と広目天像が祀られていますが、門を潜った後もその後背面から左右を覗いてみると阿・吽形の狛犬になっています。鎌倉時代の院派系仏師の作品ではないかと言われています。「清水寺縁起」によると、937年に住僧・兼慶が多聞・持国の二天を彫造奉祀したとあるので、後に入れ替わったのかもしれません。中門・轟門と本堂をつなぐ回廊は14mあります。



[ワンポイント]
轟門の前に架かる轟橋。中央の板張り部分を舌、両端の石造を歯に見立てて、清水寺の「口」と言われます。「歯痛の人は渡ってはいけない」という話もあるとか。 ☆ここににも仁王門と同様に、磨り減った木口があり「轟門のカンカン貫」と呼ばれています。カンカンという音が響くそうです。
梟の手水鉢
轟門手前の手水鉢は「梟(ふくろう)の手水鉢」と呼ばれます。轟門側にまわって手水鉢の下側を覗き込むと、観音様を挟むように梟が彫られているとのこと。ちょっと分かりにくいですが…。梟は知恵を司る神様です。
朝倉堂(重文)
江戸時代初期に、越前の守護大名・朝倉貞景が「法華三昧堂」として寄進したもの。堂内中央の宝形造り唐様厨子(重文)内に本堂と同じく千手観音ら三尊を祀ります。本瓦葺きの入母屋造り。
仏足石
朝倉堂の東庭にあります。「観仏三昧経」等に仏足を拝めば無限無量の罪穢れも消滅するとあり、また豪傑武者・平景清の足形とも言われているため多くの参詣者や修学旅行生らに撫でられ続け、11種類の文様が摩消しています。

[ワンポイント]
清水寺の七不思議⑥仏足石(一尺七寸(約50cm)もの大きな足形の中央には、仏足石を象徴する足下二輪相がうっすら残っています。弁慶によるものであるとか、平家の武将・平景清のものだったとかという伝説があります。)
田村堂(開山堂)(重文)
清水寺を創建し、東方遠征の際に観音の保護を受けたという坂上田村麻呂夫妻の像を堂内中央、須弥壇上の厨子(重要文化財)内に祀っています。田村麻呂公は衣冠束帯、三善(みよし)高子夫人は貴族命婦姿をしています。清水寺開基の行叡居士と開山の延鎮上人も奉祀しています。

[ワンポイント]
※普段は一般公開されていません。清水寺を舞台にした能『田村』にも登場します。
2009年は坂上田村麻呂公一千二百年御遠忌にあたります。
中興堂
北苑の春日社南隣りにあります。中興開山大僧正・大西良慶和上の御霊屋です。1997年の建立。
北総門(重文)
元は旧本坊・成就院の正門でした。江戸時代初期に再建。切妻造り、本瓦葺き。東隣に弁天堂が建ちます。

月照碑
北総門の北裏側に月照・信海兄弟上人の歌碑と西郷隆盛の詩碑が並んでいます。

塔頭・成就院
成就院
境内の最北部にある清水寺の塔頭で、旧本坊。期間限定で特別公開されます。国の名勝に指定されている借景式庭園「月の庭」が見所。文明年間(1469~87)の創建と伝わり、応仁の乱の兵火によって焼失した清水寺を勧進活動によって再興した願阿上人の住房が起源です。江戸時代には清水寺の本願職を担当し、寺の財政・メンテナンスに勤めました。寛永16年(1639年)に東福門院の寄進により再興されています。幕末には、勤皇歌僧・月照(忍向)・信海兄弟を輩出し、明治~昭和にかけて中興開山・良慶和上が住持しました。
成就院庭園(名勝)
国の名勝に指定されている模範的な借景式・池泉観賞式の庭園で、「月の庭」と呼ばれています。相阿弥作・小堀遠州の補修とも、松永貞徳の作とも伝えられます。烏帽子石、蜻蛉燈籠や豊臣秀吉が寄進したとされる誰が袖手水鉢、蜻蛉燈籠、手鞠燈籠等の名品が配され、五葉松・「佗助」椿も風趣を添えます。

[ワンポイント]
中島に立つ蜻蛉燈籠は、灯火が儚げに漏れる様からその名が付いたといいます。右にある石は、法衣姿の僧が西に向かって合掌する姿に見える事から「合掌石」と呼びます。蜻蛉燈籠から一直線上に40m程先の山の中腹にも1基の燈籠がぽつんと立っているのが見えます。
成就院住職であった月照は、この庭を讃える歌を詠んでいます。「池きよみ宿れる月を見るなへに 心の底も澄みまさるらむ(清らかな池の面に映る月を眺めていると、心の底まで澄み切ってくる)」
石仏群
成就院参道途中の右手に千体余りの石仏が群集して祀られています。京都市内の各町内で祀られ、夏には地蔵盆会を営んできた石仏で、明治の廃仏毀釈により清水寺に運び込まれたもの。 大日如来・千手観音・地蔵菩薩や二尊仏など様々で、鎌倉時代頃の古いものもあるそうです。
春日社(鎮守堂)(重文)
成就院参道の途中に建っています。元は清水寺の宗派・法相宗の鎮守である奈良の春日大明神を勧請して祀った鎮守堂でした。春日造りの神社建築でです。各部の彫刻等桃山様式の趣が表れています。江戸時代初頭に再建。
塔頭・慈心院
随求堂
清水寺の塔頭・慈心院の本堂。本尊の随求菩薩(秘仏)は、衆生の願い・求めにすぐに 随(したが)って、全て叶えてくれるという大功徳を持っているとか。梵字の大随求陀羅尼をデザインした円形光背を持ち、七重の獅子蓮華台座に坐る八臂(はっぴ)元禄様式の美術・ 工芸の粋をつくした至極美麗な像。脇侍は毘沙門天と吉祥天です。 大聖歓喜天や粟島明神等は縁結び・安産・子育ての神仏です。江戸中期の再興です。

[ワンポイント]
堂下では、真っ暗闇の中を大数珠を頼りに廻る「胎内めぐり」を体験できます。暗闇の中で自分自身の存在を問い直し、自分自身の光を感じてみましょう。
経堂(重文)
教典を収蔵しています。堂内には釈迦三尊像を祀り、もとは講堂でもありました。鏡天井に岡村信基筆の墨絵の円竜が描かれています。江戸時代初期の再建。
三重塔(重文)
日本最大級の三重塔で高さ31m弱。清水寺の本尊・観世音菩薩の霊験により嵯峨天皇が皇子を授かったため、平安初期・847年に葛井親王(かどいしんのう)の勅命により創建されたと伝えられています。 総丹塗りで内部には、4本の柱の中央に真言宗の本尊・大日如来像が鎮座しています。四周の壁には真言八祖像を描き、天井・柱等密教仏画や飛天・竜らが極彩色で描かれています。 現塔は古様式に則って江戸時代初期に再建。

[ワンポイント]
☆清水寺の七不思議⑤三重塔(三重塔の四方角の屋根に付いている鬼瓦が、東南角の瓦だけ龍がついている。龍は仏教の守護神であり、水を司り雨を呼ぶ神なので、防火のおまじないになっている。)


おすすめは、南苑に続く階段を降りて池の近く辺り。10~12時辺りを狙うと朱塗りの塔はの発色が良く見えます。青空と紅葉に挟まれた三重塔を撮るなら、15時頃がおすすめです。
爪形観音
随求堂の手前、右手にあります。平景清が爪で石の上に観音様を彫り、奉納したと伝えられています。 この小さな窓の奥に観音様が祀られていると言われますが、暗いのでよく見えません。
西門(さいもん・重文)
境内西側のちょっと小高いところに建っています。ここから夕陽を眺めながら極楽浄土を想う場所だったのではと言われています。拝殿風の作り、背面に軒唐破風を架ける大層珍しい形式。二天像は向かって右側が持国天立像、左側が増長天(ぞうじょうてん)立像で、高さは2mを越えます。奈良仏師・慶派流の鎌倉様式を伝え、鎌倉末期~南北朝時代の作品と考えられています。共に桧材の寄木造り、彩色像です。江戸時代初期のもので、1631年に再建。
鐘楼と梵鐘(共に重文)
鐘楼は江戸時代初期のもので、1607年に再建されています。2.3トンもの重い梵鐘を吊るために六本柱、四方転びの技法を用い、柱に貫(ぬき)を三重に通して組み固めています。牡丹彫刻の懸魚(げぎょ)や菊花彫刻の蟇股(かえるまた)等に桃山様式の美が見られます。 梵鐘は室町時代のものですが、応仁の乱後、清水寺を復興した願阿上人の勧進活動によって1478年に歳鋳造され、2008年に退役しました。同年、清水寺門前会会員らによって第5世にあたる「平成梵鐘」が寄進されました。以前の梵鐘に比べて音が低く、余韻を長くしたといいます。

[ワンポイント]
清水寺の七不思議④鐘楼(通常、梵鐘は四本の柱で支えられるが、清水寺の梵鐘は大きく重いために六本)
岸駒灯籠
仁王門の階段を上がった右手の端にあります。岸駒は江戸時代後期の画家で、円山応挙や谷文兆と覇を競う京都画壇の重鎮として活躍し、その一門は岸派と呼ばれました。虎の絵の名人と謳われ、灯籠にも岸駒の虎の絵が描かれているます。余りに見事なので、夜な夜な灯籠から抜け出しては境内を歩き回って人々を驚かしたという伝説があるというほど。

[ワンポイント]
清水寺の七不思議③虎の図(岸駒作の「虎の図」の石灯籠に彫られた八方睨みの虎は、毎夜灯籠から抜け出して池の水を飲みに行くという不思議な言い伝えが残ります。☆東洞院丸太町を下った所には岸駒居住地の石碑が建っています。
仁王門(重文)
清水寺の正門で、西に向かって建っています。昔ながらの丹塗りなので「赤門」と呼ばれます。3mを越える仁王像は、向かって右側が開口阿形の那羅延金剛力士(ならえん・こんごうりきし)、左側が閉口吽形の密迹(みっしゃく)金剛力士です。 その金剛の大力で清水寺の諸仏・堂塔伽藍と全境内を堅固に警護しているのです。「清水寺」の額は、平安時代の名書家・藤原行成の筆と伝わります。両脇間には鎌倉様式の美を見せる勇壮な大仁王像が祀られています。応仁の乱後、15世紀末に再建されましたが、創建当初の室町時代の特徴が見られます。入母屋造りで桧皮葺き。



[ワンポイント]
清水寺の七不思議:①狛犬(清水寺の仁王門前の狛犬は、口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」ではなく、二匹とも口を開けた「阿形」)②仁王門のカンカン貫(仁王門の右側の前面と背面それぞれの柱に磨り減った木口があり、一人が耳をつけて、反対側をもう一人が叩くと、「カンカン」という音が聞こえてくる。 )
馬駐(うまとどめ)(重文)・宝性院
かつて貴族や武士がここで馬から下り、馬をこの建物に繋いでから参拝したそうです。応仁の乱後に再建されましたが、全国的に希少な遺構で規模も大きく、同時に五頭の馬を繋ぐことができます。貫鼻(ぬきはな)などに繰形(くりがた)を飾っています。謡曲「熊野」(ゆや)に登場。 東隣には宝性院(※現在工事中です)があります。※画像は宝性院です。

[ワンポイント]
※現在工事中です。 なぜか金具が一つ違う向きに付いているそうです。間違って付けられてしまったのか、原因は不明・・・。
大講堂
清水寺開創1200年を記念し、観音信仰の道場・国際交流の殿堂として建立、寺務所が置かれています。中央棟の多宝閣に4メートルの巨大な仏足石と四方四仏四千余体を祀ります。また宝蔵殿に重要文化財の仏像・絵馬や寺宝を収蔵しています。
善光寺
善光寺
「清水寺参詣曼荼羅」によると、ここの辺りには六地蔵が並び、小堂が建っていました。奥の院南庭には、長野県善光寺の本尊を勧請した善光寺如来堂と思われます。明治中期にそれらが合併し、地蔵院善光寺堂となりました。現在のものは1984年の改築です。
首振地蔵
清水寺の仁王門を潜るまでの左手にあります。想う人がいる方向に首を向けて祈ると願いが叶うといいます。お地蔵様の前で一礼してから、両手でお地蔵様の顔を挟み、回します。祇園の芸妓が祀ったものといわれています。

[ワンポイント]
別の伝説では、ある祇園の幇間(ほうかん。たいこもち)が散財し過ぎた事を哀れに思った人々が、首の回るお地蔵様を作って慰めたといい、借金に困った人もお参りすると言われています。
南苑・その他
アテルイ、モレの碑
清水寺境内南苑に建っています。アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑なに抵抗した蝦夷(えみし)の首長と副将でしたが、征夷大将軍・坂ノ上田村麻呂の軍に帰順。将軍が戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命を嘆願しましたが許容されず、両雄は河内の国で処刑されたそうです。この鎮魂・顕彰の碑は平安建都1200年の際、両雄ゆかりの岩手県水沢・江刺地方出身の関西在住者や地元の有志によって1994年に建立されました。
乾山記念碑
清水寺境内南苑に建っています。尾形乾山は江戸中期の陶芸家で、尾形光琳の弟です。野々村仁清に陶技を学び、鳴滝に窯を開き、兄・光琳の絵付けによる合作を作り色絵京焼の発展に大いに貢献しました。二条丁字屋町に移って多くの食器類を焼き、乾山焼を広めました。碑の書は臨済宗建仁寺派管長・竹田黙雷禅師によるもの。大正9年に洛陶会によって建立されました。
仁清記念碑
野々村仁清は江戸前期の陶芸家。金森宗和の指導で茶器を焼き、京焼色絵陶器の完成者となりました。大正9年に洛陶会によって建立されました。仁和寺門前で御室窯を開き陶器を焼いていた事から、碑の書は仁和寺門跡法龍大僧正の筆となっています。大正9年に洛陶会によって建立されました。毎年10月4日の陶器の日には法要が営まれています。
福禄寿
現在では七福神のイメージが強いのですが、この石像は練行中の行叡居士の姿として伝えられています。当時の仏教行者は道教の熟達であった事が伺える数少ない資料の一つなのだそうです。
念彼観音力碑
「念彼観音力」とは、観音様の力によって苦厄を救う呪文のような言葉なのでしょうか。清水寺を訪れる全ての人に向けて発せられているような気分になります。
十一重石層塔
延命院
延命坂
弁財天
塔頭・慈心院
随求堂
清水寺の塔頭・慈心院の本堂。本尊の随求菩薩(秘仏)は、衆生の願い・求めにすぐに 随(したが)って、全て叶えてくれるという大功徳を持っているとか。梵字の大随求陀羅尼をデザインした円形光背を持ち、七重の獅子蓮華台座に坐る八臂(はっぴ)元禄様式の美術・ 工芸の粋をつくした至極美麗な像。脇侍は毘沙門天と吉祥天です。 大聖歓喜天や粟島明神等は縁結び・安産・子育ての神仏です。江戸中期の再興です。

[ワンポイント]
堂下では、真っ暗闇の中を大数珠を頼りに廻る「胎内めぐり」を体験できます。暗闇の中で自分自身の存在を問い直し、自分自身の光を感じてみましょう。
経堂(重文)
教典を収蔵しています。堂内には釈迦三尊像を祀り、もとは講堂でもありました。鏡天井に岡村信基筆の墨絵の円竜が描かれています。江戸時代初期の再建。
三重塔(重文)
日本最大級の三重塔で高さ31m弱。清水寺の本尊・観世音菩薩の霊験により嵯峨天皇が皇子を授かったため、平安初期・847年に葛井親王(かどいしんのう)の勅命により創建されたと伝えられています。 総丹塗りで内部には、4本の柱の中央に真言宗の本尊・大日如来像が鎮座しています。四周の壁には真言八祖像を描き、天井・柱等密教仏画や飛天・竜らが極彩色で描かれています。 現塔は古様式に則って江戸時代初期に再建。

[ワンポイント]
☆清水寺の七不思議⑤三重塔(三重塔の四方角の屋根に付いている鬼瓦が、東南角の瓦だけ龍がついている。龍は仏教の守護神であり、水を司り雨を呼ぶ神なので、防火のおまじないになっている。)


おすすめは、南苑に続く階段を降りて池の近く辺り。10~12時辺りを狙うと朱塗りの塔はの発色が良く見えます。青空と紅葉に挟まれた三重塔を撮るなら、15時頃がおすすめです。
爪形観音
随求堂の手前、右手にあります。平景清が爪で石の上に観音様を彫り、奉納したと伝えられています。 この小さな窓の奥に観音様が祀られていると言われますが、暗いのでよく見えません。
西門(さいもん・重文)
境内西側のちょっと小高いところに建っています。ここから夕陽を眺めながら極楽浄土を想う場所だったのではと言われています。拝殿風の作り、背面に軒唐破風を架ける大層珍しい形式。二天像は向かって右側が持国天立像、左側が増長天(ぞうじょうてん)立像で、高さは2mを越えます。奈良仏師・慶派流の鎌倉様式を伝え、鎌倉末期~南北朝時代の作品と考えられています。共に桧材の寄木造り、彩色像です。江戸時代初期のもので、1631年に再建。
鐘楼と梵鐘(共に重文)
鐘楼は江戸時代初期のもので、1607年に再建されています。2.3トンもの重い梵鐘を吊るために六本柱、四方転びの技法を用い、柱に貫(ぬき)を三重に通して組み固めています。牡丹彫刻の懸魚(げぎょ)や菊花彫刻の蟇股(かえるまた)等に桃山様式の美が見られます。 梵鐘は室町時代のものですが、応仁の乱後、清水寺を復興した願阿上人の勧進活動によって1478年に歳鋳造され、2008年に退役しました。同年、清水寺門前会会員らによって第5世にあたる「平成梵鐘」が寄進されました。以前の梵鐘に比べて音が低く、余韻を長くしたといいます。

[ワンポイント]
清水寺の七不思議④鐘楼(通常、梵鐘は四本の柱で支えられるが、清水寺の梵鐘は大きく重いために六本)
岸駒灯籠
仁王門の階段を上がった右手の端にあります。岸駒は江戸時代後期の画家で、円山応挙や谷文兆と覇を競う京都画壇の重鎮として活躍し、その一門は岸派と呼ばれました。虎の絵の名人と謳われ、灯籠にも岸駒の虎の絵が描かれているます。余りに見事なので、夜な夜な灯籠から抜け出しては境内を歩き回って人々を驚かしたという伝説があるというほど。

[ワンポイント]
清水寺の七不思議③虎の図(岸駒作の「虎の図」の石灯籠に彫られた八方睨みの虎は、毎夜灯籠から抜け出して池の水を飲みに行くという不思議な言い伝えが残ります。☆東洞院丸太町を下った所には岸駒居住地の石碑が建っています。
仁王門(重文)
清水寺の正門で、西に向かって建っています。昔ながらの丹塗りなので「赤門」と呼ばれます。3mを越える仁王像は、向かって右側が開口阿形の那羅延金剛力士(ならえん・こんごうりきし)、左側が閉口吽形の密迹(みっしゃく)金剛力士です。 その金剛の大力で清水寺の諸仏・堂塔伽藍と全境内を堅固に警護しているのです。「清水寺」の額は、平安時代の名書家・藤原行成の筆と伝わります。両脇間には鎌倉様式の美を見せる勇壮な大仁王像が祀られています。応仁の乱後、15世紀末に再建されましたが、創建当初の室町時代の特徴が見られます。入母屋造りで桧皮葺き。



[ワンポイント]
清水寺の七不思議:①狛犬(清水寺の仁王門前の狛犬は、口を開けている「阿形」と、口を閉じている「吽形」ではなく、二匹とも口を開けた「阿形」)②仁王門のカンカン貫(仁王門の右側の前面と背面それぞれの柱に磨り減った木口があり、一人が耳をつけて、反対側をもう一人が叩くと、「カンカン」という音が聞こえてくる。 )
馬駐(うまとどめ)(重文)・宝性院
かつて貴族や武士がここで馬から下り、馬をこの建物に繋いでから参拝したそうです。応仁の乱後に再建されましたが、全国的に希少な遺構で規模も大きく、同時に五頭の馬を繋ぐことができます。貫鼻(ぬきはな)などに繰形(くりがた)を飾っています。謡曲「熊野」(ゆや)に登場。 東隣には宝性院(※現在工事中です)があります。※画像は宝性院です。

[ワンポイント]
※現在工事中です。 なぜか金具が一つ違う向きに付いているそうです。間違って付けられてしまったのか、原因は不明・・・。
大講堂
清水寺開創1200年を記念し、観音信仰の道場・国際交流の殿堂として建立、寺務所が置かれています。中央棟の多宝閣に4メートルの巨大な仏足石と四方四仏四千余体を祀ります。また宝蔵殿に重要文化財の仏像・絵馬や寺宝を収蔵しています。
善光寺
善光寺
「清水寺参詣曼荼羅」によると、ここの辺りには六地蔵が並び、小堂が建っていました。奥の院南庭には、長野県善光寺の本尊を勧請した善光寺如来堂と思われます。明治中期にそれらが合併し、地蔵院善光寺堂となりました。現在のものは1984年の改築です。
首振地蔵
清水寺の仁王門を潜るまでの左手にあります。想う人がいる方向に首を向けて祈ると願いが叶うといいます。お地蔵様の前で一礼してから、両手でお地蔵様の顔を挟み、回します。祇園の芸妓が祀ったものといわれています。

[ワンポイント]
別の伝説では、ある祇園の幇間(ほうかん。たいこもち)が散財し過ぎた事を哀れに思った人々が、首の回るお地蔵様を作って慰めたといい、借金に困った人もお参りすると言われています。
南苑・その他
アテルイ、モレの碑
清水寺境内南苑に建っています。アテルイ、モレは、平安律令政府の東北征服戦争に対してゲリラ戦で頑なに抵抗した蝦夷(えみし)の首長と副将でしたが、征夷大将軍・坂ノ上田村麻呂の軍に帰順。将軍が戦後の蝦夷経営に登用すべく朝廷に助命を嘆願しましたが許容されず、両雄は河内の国で処刑されたそうです。この鎮魂・顕彰の碑は平安建都1200年の際、両雄ゆかりの岩手県水沢・江刺地方出身の関西在住者や地元の有志によって1994年に建立されました。
乾山記念碑
清水寺境内南苑に建っています。尾形乾山は江戸中期の陶芸家で、尾形光琳の弟です。野々村仁清に陶技を学び、鳴滝に窯を開き、兄・光琳の絵付けによる合作を作り色絵京焼の発展に大いに貢献しました。二条丁字屋町に移って多くの食器類を焼き、乾山焼を広めました。碑の書は臨済宗建仁寺派管長・竹田黙雷禅師によるもの。大正9年に洛陶会によって建立されました。
仁清記念碑
野々村仁清は江戸前期の陶芸家。金森宗和の指導で茶器を焼き、京焼色絵陶器の完成者となりました。大正9年に洛陶会によって建立されました。仁和寺門前で御室窯を開き陶器を焼いていた事から、碑の書は仁和寺門跡法龍大僧正の筆となっています。大正9年に洛陶会によって建立されました。毎年10月4日の陶器の日には法要が営まれています。
福禄寿
現在では七福神のイメージが強いのですが、この石像は練行中の行叡居士の姿として伝えられています。当時の仏教行者は道教の熟達であった事が伺える数少ない資料の一つなのだそうです。
念彼観音力碑
「念彼観音力」とは、観音様の力によって苦厄を救う呪文のような言葉なのでしょうか。清水寺を訪れる全ての人に向けて発せられているような気分になります。
十一重石層塔
延命院
延命坂
弁財天