安倍晴明

プロフィール ツアー行程 ゆかりの名所 エピソード

時は千年をさかのぼる。
陰陽道を確立し、生身の人間でありながら式神を操り、死してなお多くの伝説を残した安倍晴明。
夢枕漠の小説を漫画化した岡野玲子の「陰陽師(おんみょうじ)」が大ヒットし、書店には彼の研究本が積まれる。
平成の今、どうしようもなく彼に惹かれるのは何故?


安倍晴明プロフィール
安倍晴明 明治以降陰陽道がすたれ、歴史の授業で取り上げられることはないので、謎に包まれた知る人ぞ知る人物だった。近年、荒俣宏氏の『帝都物語』や夢枕漠氏の『陰陽師』(岡野玲子氏によりコミック化も)などでにわかにクローズアップされてきた。
伝説に彩られた平安時代中期の大陰陽師。天文博士。土御門家の祖。
父は系図によれば大膳大夫・安倍益材(あべのますき)。物語や伝説上では父は安倍保名(あべのやすな)、母は狐の化身・葛の葉(くずのは)。出身は和泉(大阪府)、讃岐(香川県)、筑波(茨城県)など諸説ある。妻の名は不明。息子の吉平(よしひら)・吉昌(よしまさ)も父の後を継ぎ、陰陽師となった。
幼い時に京に上り、陰陽師・賀茂忠行の元で修行し、鬼神を見ることができたという。天皇や藤原道長等貴族のために占いをしたり、陰陽道諸々祭を取り仕切った。著書に占いを集大成した『占事略決』がある。

その生涯は神秘的なエピソードで彩られ、平安時代の貴族の日記や仏教説話集にも、鬼神を見て師匠を救った、天変を察して花山天皇の退位を知った、よく式神(鬼神)を使い、老僧と術比べをして勝った、草の葉を投げて蛙を殺した、白犬と共に道長に掛けられた呪いを見破った、蔵人の少将に掛けられた呪いを見破り、呪詛返しをし、呪いをかけた陰陽師を殺したなどの話が載っている。これらの説話を見ると人を救いもするが、「晴明」という綺麗な名前に似合わず、殺生もする、「一癖ありげな陰陽師」のイメージが浮かんでくる。

江戸時代に入るとますます人気が沸騰し、物語や浄瑠璃の題材にもなった。狐の母と悲しい別れをした、ライバル・芦屋道満に殺された父を一条戻橋で生き返らせた、唐に留学中に道満に妻を寝取られた、蛇を助けて龍宮城へ行ったなどなど、ミステリアスなエピソードに事欠かない。

安倍晴明は1005年、85歳で天寿を全うした。当時としては異例の大往生である。一度死んだが、閻魔大王に秘印をもらい、生き返った、という話もあるのだが・・・


安倍晴明エピソード
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16 その17 その18 最終  

その1「安倍晴明、出生の謎~母は狐?~」
安倍晴明は、なぞの多い人物です。
生まれた年はいつなのか?母親は誰なのか、どこで生まれたのか、わからないことがたくさんあります。

父は、物語上では、保名(やすな)となっておりますが、母の名前は、書かれていません。晴明誕生の地として、有名な神社『安倍晴明神社』に伝わる「葛の葉子別れ伝説」によると、晴明の母は、「葛の葉」という白狐だと言われています。

伝説は次のように伝えられています。

当時、阿倍野に住んでいた、晴明の父保名は、信太(しのだ)の森で狩に追われていた白狐を助けます。白狐は、恩返しの為に、人間の女性に姿を変え、葛の葉と名乗り、保名の妻となって、晴明を産みました。
けれども、ある日、狐の姿を幼い晴明に見られてしまいます。「母さま、こわい」と泣き出す幼い晴明の姿を見た、葛の葉は、 「私は、昔、保名様に助けていただいた白狐です。」と告白し、森へ帰っていきました。

けれども、別の文書『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)という本には、晴明には、父母がいない「化生ノ者」つまり、「人間ではないもの」と書き記されています。

晴明は、白狐の子なのか、はたまた、本当に人間ではないのか?
今の世に伝えられている数々の安倍晴明に関する伝説、人間ばなれしたスーパースターぶりを読むと、「本当に同じ人間なのか?」という疑問を誰しも抱くと思います。当時の人々も、そんな疑問を感じたのではないでしょうか?そして、こんな2つの伝説を作り上げたのではないかと思います。
安倍晴明神社
大阪阿倍野の安倍晴明神社。
(阪堺電車東天下茶屋駅下車徒歩5分)
ここが晴明誕生の地か?
泰名稲荷神社
晴明の父を祀る泰名稲荷神社
(安倍晴明神社境内)
晴明産湯の井戸
晴明産湯の井戸
(安倍晴明神社内)
その2「幼少期のエピソード~悪食伝説~」
幼少の頃の安倍晴明は悪食でした。
「泉州信太森葛葉稲荷」に伝わる『泉州信田白狐伝』(せんしゅうしのだびゃっこでん)によると、「ところがこの子にも妙な癖があった。地面の虫をとってしまうのである。この悪食が一向に止まらない。」と書いてあります。四歳の頃になると、晴明は、家でクモやゲジゲジを見つけると、口に入れ、田畑に出れば、イナゴやムカデを食べていました。幼い少年は恐ろしいヘビを見てもまったく恐れなかったそうです。

このお話には、続きがあります。幼い晴明の悪食ぶりを見た母親は、「このままでは、自分の正体が、狐だとばれてしまう、そうしたら、晴明とも別れて暮らさなければならなくなる」と嘆きます。晴明も自分の悪食のせいで、母親が悲しむのを見て、悪食を止めたというのです。

このエピソードから、「晴明は、幼い頃から、意思の強い子供だった」とか、「これは、晴明が狐の子だった証明だ」などと述べている本がありますが、私はそうは思いません。むしろ、晴明は、母親想いの優しい子供だったのではないでしょうか。他にも晴明は、妻がおびえるからという理由で式神を一条戻り橋に隠しておいたというエピソードや晴明の妻は見鬼だったので式神を嫌っていたからという説などが伝えられております。

幼い頃の母親想いの晴明といい、おびえる妻のために式神を隠す優しい晴明といい、2つ共、晴明のフェミニストぶりが伺えるエピソードではないでしょうか?
井戸
■大阪府・葛葉稲荷神社

晴明の母はこの井戸に姿を映して狐から人間の女性に変身したと言われている。
(JR阪和線北信太駅から徒歩5分)
歌碑
■葛葉稲荷神社

母・葛の葉が晴明と別れる時に詠んだ歌の歌碑。

その3「鳥の会話を理解した晴明」
さて、阿倍野にいた晴明が、どうやって京へ上り、陰陽師になったのでしょうか?

そのことを知る手がかりに、『安倍晴明物語』・『ほき抄』に伝わる1つの伝説があります。『安倍晴明物語』によると、「ある日、晴明は、鳥たちの会話を聞いて、京の天皇(醍醐天皇か、もしくは、村上天皇)が重い病気にかかっていることを知りました。さらに、その原因が、一年前に造った寝殿にあることを鳥たちの会話から知り、そのことを天皇に伝えるために京へ上った」とあります。

この話には、前ふりがあります。

「晴明が、まだ父と一緒に阿倍野に暮らしていた頃、神社の祭礼に行く途中、子供たちがよってたかって一匹の白い蛇をいじめているのを見つけます。彼が、蛇を助けてあげると、その蛇は、竜宮の乙姫の化身でした。助けてもらったお礼に晴明は、竜宮に招待されます。乙姫から感謝の気持ちとして、竜宮の秘宝「竜宮の秘符」と「青眼」(『ほき抄』では、石の匣(はこ)を土産にもらい、鳥薬(うやく)を耳に塗ってもらったとあります。)をもらいます。竜宮からもとの世界へ戻った晴明は、目と耳に入れた「青眼」のおかげで、人間の過去、未来や鳥獣の声が理解できるようになっていました」

と、あります。そして、このお話は、天皇の病気を治す部分へと続くのですが、蛇を助けたお礼に竜宮につれていかれる話は、なにやら、浦島太郎伝説とよく似ています。違うのは、浦島太郎の場合は、土産にもらった玉手箱をあけると、たちまちおじいさんになってしまいましたが、晴明は、土産にもらった「青眼」のおかげで、陰陽師としての能力を授けられる点です。「浦島太郎伝説は、安倍晴明の力の秘密を隠すために流した嘘の伝説だ」(『週刊安倍晴明』より)と言っている本もありますが、真偽の程は定かではありません。

その4「幼い頃から鬼神が見えた」
平安時代といえば、「華麗なる王朝文化が花開いた時代」「女性は十二単をまとい、和歌や、管弦の宴を毎日のように開いていた」「源氏物語や枕草子が書かれた時代」などを思い浮かべるのではないでしょうか?そんな平安時代の華やかな表舞台の様子とは、うらはらに、夜になれば、街や通りに、怨霊や、鬼がさまよい歩いていた時代でもありました。

安倍晴明の陰明師という仕事には、単に占いをするだけではなく、そんな怨霊や鬼を退治することも含まれていました。

『今昔物語集』の記述によれば、幼い頃から、晴明は鬼神が見えたようです。幼い頃の晴明は、賀茂忠行という陰陽師のもとで修行を重ねていました。師忠行の言葉によれば、「(自分でも、)子供の頃に鬼神を見ることはなかった。陰陽師の術を習ってから、やっと目に見えるようになったものだ。」そうです。ということは、幼い頃から、鬼神が見えた晴明は、やはり、天才だったのでしょう。

この話には、「晴明がまだ若かった頃」としか、書いていないので、はっきりした年齢はわかりませんが、恐らくは、「十代の初めといった頃」(『陰明師』著 夢枕獏より)でしょうか。ある日、師の忠行について、夜、牛車に乗って下京(南の方角)に、向かった時の話です。師の忠行は車の中ですっかり眠り込んでいました。しばらくして、晴明がふと、前方を見るとなんとも言えない恐ろしい鬼たちが車のまえに向かって来るのが見えました。驚いた晴明は、すぐに忠行を起こし、そのことを告げました。目を覚ました忠行は、鬼の来るのを見ると、術の力によって、たちまち忠行自身と、供の者たちを鬼の目には、わからない場所に隠したため、無事にその場を通りすぎたと伝えられています。

ただ、幼い頃から、鬼神が見えたのは、晴明だけではなく、忠行の息子、保憲(やすのり)も見えた、と『今昔物語』には、書き記されています。保憲は、後に、晴明の兄弟子になります。保憲は、晴明のよき理解者であると同時に、ライバル関係にもあったようです。(ちなみに、保憲は晴明より4歳年上でした。)2人は、幼い頃から、互いの才能を認め合い、切磋琢磨しあっていた関係だったのでしょうか?なんだか、2人の関係をあれやこれやと、想像してしまうようなエピソードです。

(鬼神にであったときには、息をひそめて自分たちの気配を消し、やり過ごすのが、普通だそうです。そうすれば、鬼たちは、人間に危害を加えないのだとか)

その5「陰陽師というお仕事1」
陰陽師という仕事は、天体の動きを観察して吉凶を占ったり、太陽や月の運行を測って暦を作り、これによって日柄の吉凶を判断したり、土地の吉凶を占ったり、といったような「占い」が主な仕事でした。

又、この時代の人々は、生活のすべてが陰陽道に基づいて生活していました。例えば、今日は、南東の方向が悪いと出ると「方違い」といって悪い方角を避けて通ったり、日が悪いと出れば「物忌み」と称して、その日は一日家にこもったり。そして、何か悪い出来事や印が現れれば、陰陽師を呼んでその原因を占ってもらいました。

例えば、こんなエピソードがあります。

初夏のこと。物忌み中の藤原道長のもとに、早成の瓜が献上されてきました。道長は早速食べてみたいと思いましたが、今は物忌み中のため、食べてもよいかどうか晴明に吉凶を占ってもらうことにします。

NHKのTV塔晴明が早速占ったところ、ほとんどの瓜は「吉」とでたのに、たった一つだけ「凶」と出た瓜がありました。「この瓜に毒気があるようです。加持祈祷を行えば、毒気が現れるでしょう。」そこで、次に、僧上観州(かんしゅう)が祈祷したところ、瓜が妖しく動きはじめました。その様子を見ていた丹羽忠明(たんばのただあき)に向かって、道長は、「毒気を押さえるように」と命じます。忠明は医者らしく瓜を手にすると、綿密に調査し始めました。そして、2箇所に針をたてると、瓜は動かなくなりました。次に、源義家(よしいえ)が進み出てきて、腰の短刀を引き抜いて、瓜を切ると、瓜は、真っ二つに割れました。中には、小さなヘビがどくろを巻いてうずくまっていました。(『古今著聞集』)

悪い出来事・兆候に怯える人々の心から、不安を取り除くのも陰陽師の仕事でした。陰陽師として優秀だった晴明は、多くの人々に頼りにされていたようです。

*晴明も勤務した当時の陰陽寮跡。今ではNHKのTV塔が立っています。

その6「陰陽師というお仕事2」
晴明が、陰陽師として歴史の表舞台に登場するのは、五十七歳。
藤原道長に重く用いられるようになってからでした。

それまでの若い頃の記録は一切残っていませんので、晴明がどうやって陰陽寮(朝廷内にある役所)の天文博士という地位にまで登りつめたのかは、全くわかりません。文献には、何か事あるごとに、天皇や貴族に晴明が、呼び出された記録が、たくさん残っています。これらの事実から察するに、恐らく晴明は、こういった人々の信頼と腕の確かさでもって、天文博士という地位を築きあげていったのだと思います。

今度は、晴明の役職、天文博士について、見ていきましょう。
具体的な仕事ぶりが伺えるエピソードが『大鏡』に載っています。

話は、晴明が六十六歳の時のこと。
ときは寛和二年(九八六年)六月二十二日のこと。花山天皇は、藤原道兼にそそのかされ、天皇を退位することを決意しました。この話は、花山天皇が出家先の花山寺に向かう途中の出来事です。
牛車がちょうど晴明邸にさしかかった時でした。晴明の家から手を何度も強くたたきながら、「これは一大事。天皇がご退位あそばされるぞ。天にはその兆候が現れているが、もはや事は決まってしまったようだ。とにかく、すぐに参内に参ろうと思うので、着替えと車の用意をいたせ」と命じる晴明自身の声が聞こえてきました。

また、続けて晴明が、「取り合えず、式神一人、内裏に行って事の真相を確かめてくるのだ。」と言うと、目には見えない何物かが、屋敷の外へ飛び出す気配がしました。が、そのものは、きっと、花山天皇の通りすぎる後ろ姿を見たのでしょう。「申し上げます。天皇はたった今、この屋敷の前を通り過ぎていきました。」と述べました。目に見えない声の持ち主は、式神でした。

晴明のような、陰陽寮に属する陰陽師には、天皇や国家の吉凶・未来も占うという重要な仕事がありました。ひとたび、凶事の兆しがあれば、それを未然に防ぐための手立てを打つのが仕事です。「天にはその兆候が現れている」という言葉どおり、天文博士だった晴明は、毎晩のように、天体を観測して星の動きを常に占っていたのです。

その7「人の過去・未来がわかる」
晴明の”陰陽師”としての功績は、「500年前に日本に入ってきた陰陽道をまとめあげ、現在にも続く占いのスタイルを確立したこと。」さらに、「陰陽道のすごさを広く一般に知らしめたこと」が挙げられます。(『MORE』より)ここからは、晴明が使ったさまざまな術を紹介していくと共に、陰陽師安倍晴明の「凄さ」を物語っていきたいと思います。

前に述べた花山天皇のエピソードからもわかるように、晴明は、人の未来がわかりました。それだけではなく晴明は、人の過去・前世を見ぬくこともできたのです。

晴明が、六十五歳か、六十六歳頃のときのこと。
この話は、花山院がまだ天皇だったときの話です。
花山院は、原因不明の頭痛に悩まされていました。そこへ、晴明が天皇の前世を占い、頭痛の原因を突き止めました。彼は、天皇に「不運なことに、前世の骸骨が岩の間に挟まったままでいます」と言います。「それが雨になると、岩が水を含んでふくらみ、挟まっている骸骨を圧迫するので、頭痛が起こるのです。」天皇は言われたとおり、骸骨のある場所へ行き、首を取り出しました。その後、天皇の頭痛はぴったり治まったそうです。(『古事談』より)

自分の前世・さらに未来を予知した人物を、花山天皇は、出家し法皇となってからも何かと頼りにしていたようです。人の過去・現在・未来すべてを見通せた晴明。晴明を主人公とした岩崎陽子さんの漫画『王都妖奇譚』では、人の運命が見通せるという事に対して晴明がコンプレックスを抱いていて、その事を彼がどうやって克服していくのか、その点を軸にして物語を描いておられます。こちらの晴明は、岡野玲子さん描く飄々としてクールな晴明とは、また違った人間味溢れる晴明で、両方を読み比べてみるのも面白いと思います。

その8「笑いが止まらない」
『北条九代記』には、算術を使って人の感情を操った話が載っています。

それは、庚申の夜のことでした。

(当時の人々は、人の身体の中には、三尸(さんし)という虫がすんでいて、庚申の夜になると、この虫が体内を抜け出して、その人の罪を天帝に告げると信じていました。罪を報告されてしまうと、寿命を減らされてしまいます。眠っていないとこの虫は、身体から抜け出せないので、この災難を逃れるために、人々は、その日は、夜を徹して遊ぶのが慣わしとなっていました。)

晴明は、天皇に呼ばれて、宮中に召し出されました。
天皇は、晴明に「今日は、こうして皆が集まっている日だ。せっかくだから、なにか変わったことをしてみせよ。」と言われます。晴明は、「ならば算術を使って、皆様を笑わせてみましょう。笑いすぎても、絶対に後悔されませんね。」と言うと、算木(計算をする時に使う道具)を取り出して、それをみなの前に並べました。すると、そこにいた人々が、突然笑い始めました。誰も何もしていないのに、何がおかしいのか笑いは止まらず、しまいには、おなかの皮がよじれるまで、笑いつづけました。

「もう勘弁してくれ」と、人々が手で合図するのを見た晴明は、「では、皆様、もう笑うのに飽きられたようですので、この辺で終わりにしましょう。」と言って算木を片付けました。すると、今までのおかしさが嘘みたいに、すっととれて何事もなかったかのように、部屋は元の空気に戻りました。

嘘か、真か、晴明は、他人の感情まで操ることができたようです。ちなみに、算木の術とは、人間の視覚・聴覚・痛覚など、五体の感覚のすべてを操ることのできる恐ろしい技だそうです。それにしても、余興といえども、こんな恐ろしい技を気軽に披露してしまう、晴明は、ちょっと意地が悪い性格だったのでしょうか。

その9「術を披露しろと言われて、蛙を殺す」
陰陽師としての晴明の得意技は、式神を自由自在に操ることでした。式神とは、もとは、神や木片に過ぎないものですが、これに、霊力をもつ陰陽師が、息吹を入れることによって命令を忠実に実行するしもべに変わります。晴明は、懐に常に、何枚もの紙を忍ばせていて、必要なときには目的に応じて鳥や動物、人間の形をした式神をつくり、自在に操ることができた、と伝えられています。

そんな晴明の不思議な術をみたいと思う好奇心旺盛な人々は多かったようです。『今昔物語集』『宇治拾遺物語』(うじしゅういものがたり)にも、僧が、術の披露を晴 明にせがむエピソードがあります。

あるとき、晴明が、嵯峨野にある真言密教の高僧広沢僧正のお住まいに伺って、何かの用事を承っていたときのこと。若い僧たちが晴明にむかって、「式神を使うところを見たい」とせがみます。一度は断る晴明でしたが、ちょうど、そこへ、庭から蛙が、五、六匹ほど飛び跳ねて池のほとりに行くのが見えました。それを見た僧たちは、「それでは、式神を使ってあの蛙を殺してみて下さい。」と晴明に頼みます。
「罪つくりなお坊さんですね。それでも、私を試そうとおっしゃるのでしたら、殺してお見せしましょう。」そういった晴明は、近くに生えていた草の葉を摘み切って、呪文を唱えるようにして蛙に投げてやりますと、その草の葉が蛙の上にかかった瞬間、蛙はぺちゃんこにつぶれて死んでしまいました。

「これを見た、僧たちは顔色が変わり、あまりに恐ろしさにぞっとしてしまいまし た。」という言葉で、この話は閉じられています。
きっと、僧たちも目の前で起こった噂以上の力にびっくりしたのではないでしょうか?
このように、式神は、時には、呪詛の手先として人を殺すことも出来る恐ろしい存在でした。が、それだけではなく、他にも式神の種類は、いろいろあったのです。

その10「便利な式神」
晴明は、十二神将という十二人の式神を自由自在に操ったと言われています。
『今昔物語』には、式神について、こんな事実が書き記されています。
「この晴明は、家の中に人がいない時には、式神を使ったのであろうか。誰もいないのに、格子戸をあげおろししたことがある。まだ閉ざす人もいないのに、門が閉ざされたりすることがあった。このように驚くべきことが、たくさんあったと語り伝えている。」

花山天皇退位のエピソードにもあった(「取り合えず、式神一人、内裏に行って事の真相を確かめてくるのだ。」)ように、晴明の家には、常にたくさんの式神がいました。
式神達は、来客にお茶を入れたり、酒の支度をしたり、さらには掃除洗濯までやっていました。いやはや何とも、便利な式神です。

小説『陰陽師』の中にも、式神に関する博雅の疑問が書かれています。
「いや、おまえの屋敷がだよ」「おれの屋敷のどこが不思議だ」「人の気配がない」「それがなぜ不思議だ」「人の気配がないのに、鮎が焼けた」(・・・中略・・・)式神を必要に応じて使うだけで、実は、本物の人間などどこにもいないのかもしれず、また、ひとりやふたりならば、ほんとうに人間も実際にいるのかもしれないが、博雅にはそれがわからないのだ。

当時の人々も、博雅と同じように、晴明の屋敷に対して、こんな疑問を感じていたのではないでしょうか?ちなみに、晴明の屋敷は、京の鬼門にあたる、土御門大路小路にありました。現在の京都ブライトンホテルが建っているあたりだそうです。

式神は晴明が結婚してからは、妻(この人も実際にいたのかどうか存在が謎の人です。)が式神を見て、怖がるので、普段は一条戻り橋という橋の下に隠しておいて、用があるときだけ、橋に向かって手を打って呼び出していたそうです。
式神は、味方につければ、是ほど、心強い味方はいないですが、一歩呪詛の使い方を誤ると、自分の方が呪い殺されてしまう、危険な存在でもあったのです。そんな式神をこんな風に自由自在に操れたのは、数ある陰陽師の中でも、晴明ただ一人だけだったようで、晴明は、「やはり只者ではなかった」のです。

その11「蔵人の少将を助ける」
式神は、先にも述べましたとおり、炊事・洗濯なんでもしてくれる、忠実なしもべですが、呪詛をかけた場合は注意しなくてはいけません。
今度は、晴明の力のすごさを知ることの出来るエピソードを見ていきましょう。
この話は『宇治拾遺物語』に収録されています。

内裏に出仕したとき、晴明は、牛車から降りてきた蔵人の少将の頭の上に、カラスの糞がかけられたのを見て、誰かが、彼に、呪詛を行っていることを知ります。そして、そのことを蔵人の少将に伝えます。「あなたの命は、今宵限りですぞ」と。晴明にこう言われた、蔵人の少将は、彼に助けを求めます。その晩、晴明は蔵人の少将と一緒に屋敷にとまり、寝ずに加持祈祷を行い、彼を守ります。すると、明け方になってから、だれか戸を叩くものがあります。戸を叩くものは、少将に式神を放った陰陽師からの使いでした。「晴明様の家が強力な結界で守られていたために、式神が逆に戻ってきて、あろうことか、自分を放した陰陽師を死なせてしまった」というのです。その者に事の真相を問い詰めると、陰陽師に呪詛を頼んだのは少将と同居している妻の姉妹の夫、蔵人の五将で、彼は舅が少将ばかりを大切にするのを妬んで呪詛を頼んだらしいのです。
真実をしった舅は、蔵人の五将を家から追い出し、晴明には、十分な謝礼をしました。

上の話の場合、晴明の張った結界の力があまりにも強すぎたために、命令を実行できなかった式神が、発散されない呪詛のパワーを命令を下した側に向けた例です。このように、一歩間違えれば、自分が殺されてしまう可能性もあるのです。
それにしても、カラスの糞を投げつけられただけで、式神の存在を見破り、果ては、相手の放った式神を返すなんて、晴明はやっぱりすごい人物です。

その12「智徳法師の式神を隠す」
相手の使う式神を隠すという術も晴明は、使ったようです。式神と、式神を使う陰陽師とは、何らかの契約関係がありました。相手の式神を隠すということは、式神を操っている術を破り、さらに相手の式神に自分の言うことを聞かせるのですから、並大抵の術ではないと思います。

『今昔物語集』と、『宇治拾遺物語』には、智徳法師という播磨からきた法師の式神を隠す話が残っています。

ある日、播磨の国から来た智徳法師は、晴明を試すため、自分が陰陽師であることを隠して、晴明に「術を教えてもらいたい」と頼みます。しかし、晴明は、法師がつれている2人の童子が式神であることをすぐに見破ます。「どうやらこの法師は私の事を試そうとしているのだな、ならば、ちょっと、からかってやろう」と思った晴明は、何やら呪文を唱えて、彼の連れてきた式神を隠してしまいます。
晴明は、「今日は日が悪いので、また後日改めて、教えることにしましょう」といって、法師を帰します。法師も一旦は帰ろうと屋敷を後にしますが、いくら探しても、自分の連れてきた式神が見つからない。再び、晴明の屋敷に戻って「私の式神を帰してください」と晴明に頼みます。しかし、晴明は、「あなたもおかしなことをおっしゃる。私がどうして、あなたの供を隠さなくては、いけないのですか」と意地悪なことを言って、帰してくれません。

法師は、「参りました。どうぞ許して下さい」と晴明に許しを請います。晴明は、「あなたが私を試そうとしたから、式神を隠したのです。他の人相手になら、そういう方法で他人の力を試すのはよいですが、この晴明相手には通用しません。」と言い放ちます。法師は、他人の式神を隠す、凄い技を持っている晴明には、かなわないと思い、「あなたの弟子になります」と言って、自分の名前を書いた名札を渡しました。

名札とは、呪詛に用いる札のことです。これを晴明に渡したということは、自分の命は彼に任せたということです。つまり、智徳法師は晴明に対して、命を預ける程の凄さを感じたということでしょう。

この智徳法師、この話では、まぬけな法師として、描かれていますが、播磨の国では、有名な法師だったようです。同じく『今昔物語』には、智徳法師が、船の荷物を海賊に奪われて困っている船主に対して、術を使って、海賊から奪った荷物を取り返す話が載っています。
それにしても、晴明、力を試しにきた法師に対して、ちょっとからかってやろうとする節があるあたり、やはりちょっと意地悪なところがあったようです。

その13「道長と晴明」
あの有名な歌「此の世をば我が世と思ふぞ望月の かけたることも無しと思へば」を歌い、平安の世の栄華を極めた人物、藤原道長。道長は、藤原兼家の五男として生まれたので、本来ならば家督を継ぐ立場の人間ではありませんでした。ところが、彼自身の持って生まれた運の良さでか、或いは、策略が効を奏したのか、ライバルが次々に亡くなっていきます。加えて、道長の娘彰子と一条天皇の間に子供が2人生まれ、彼らが成人して天皇となった為に、道長は天皇の外祖父として絶大な権力を持つことになりました。
しかし、兄道隆が亡くなり、血縁の順序で言えば、その子伊周が後を継ぐはずの右大臣の座を道長が奪った辺りから何かと人に怨まれることが多くなります。そこで、道長は晴明を頼りにするようになるのです。彼が晴明を頼るようになるのは、晴明がすでに八十歳近い大陰陽師となってからでした。

『宇治拾遺物語』には、土に埋まっていた呪詛を見ぬいた話が載っています。

道長が、法成寺を建立している時、道長は、毎日のように子犬と一緒にその様子を見に行っていました。ある日、いつになく、寺門で子犬が吠え、着物の裾を咥えて中に入れようとしないので、不思議に思った道長は、晴明を呼びます。彼が言うには、その先には、道長を呪うものが埋めてあるとのこと。「ならば、埋めてあるものを探し出せ」と道長に言われた晴明は、すぐさまその場所を占い、探し出します。晴明に言われた場所を掘り起こして見ると、指摘どおり呪いをかけた土器が出てきました。その呪文のかけ方を見て、犯人は、もしやと思った晴明。鳥の形に紙を切って犯人のもとに飛んでいくように呪文を唱えます。たちまち紙は、白鷺になって南を指して飛んでいきました。「この鳥の落ちつく場所を見て参れ」と部下に命じる晴明。白鷺は、部下達をある老法師の屋敷へと案内しました。

この話に出てくる「ある老法師」が、晴明の宿敵といわれた蘆屋道満です。道満と晴明の対決は、義太夫・浄瑠璃・歌舞伎など多くの物語に残されています。
一条天皇の時代といえば、ちょうどこの頃、紫式部が『源氏物語』を書いていた頃です。

この時代、『源氏物語』に描かれるように、一見表向きは華やかで優美な世界に思われがちですが、裏を返せば出世のために人を呪い、ありとあらゆる手を使い、相手のことを蹴落としてまで権力をつかむ、どろどろした時代。恨む心は人を妬み、憎む心から生まれます。考えてみれば自分の能力以外の実力で定められる運命、家督制度、摂関政治に代表されるような身内で構成される政治機構、これらの窮屈な枠組みが彼らの心を縛り付け、醜い心を生み出したといえるでしょう。そしてそれは今の世も変わらないことですが・・・。

その14「ライバル道満 その1」
晴明の宿敵蘆屋道満は、智徳法師と同じ播磨の人でした。彼は、『蘆屋道満大内鑑』や『信太妻』では、晴明の父は保名の代からのライバルと書かれています。ということは、道満は【道長と晴明】のエピソード中でも老法師と書かれているように、晴明より相当年が上だったのではないかと思います。さてこの道満、晴明の噂を聞き、「私以上の天才陰陽師はいないのだ」と言う事を証明するために上京してきて、晴明と対決をします。

この対決は、内裏の庭で行われました。多くの公卿や役人たちを前にした法力勝負。
まず、始めに道満は、庭の砂を手にすると、それに念をかけ空に投げました。すると砂は無数のツバメに変わります。晴明は、手にした扇で一打ちしツバメを元の砂に戻しました。今度は、晴明が、呪文を使って天空から龍をあらわし、辺り一面に雨を降らせます。それを見た道満は、仕返しとばかりに龍を消そうとします。が、どれだけ術を駆使しても龍は消えません。それどころか、雨はどんどん激しさをましていき、腰の高さにまで水位が増そうかという時、再び、晴明が呪文を唱え、雨はぴたりと止まりました。最後の勝負は、木箱の中身を当てるという勝負。「これに負けたら弟子になる」と道満は宣言します。道満の答えは、「木箱の中身はミカンが十五個。」

これに対して晴明は、「ねずみ尾十五匹」と答えました。始めから木箱の中身を知っている天皇や公卿たちは、「さすがの晴明ももはやこれまでか」と思います。ところが、木箱の中から出てきたのは、姿を変えた十五匹のねずみ達でした。(『ほき抄』『安倍晴明物語』より)

ミカンをねずみにかえるという相手に術の裏を返す技で、勝利した晴明。
今まで見てきた通り、晴明は必ず相手の術を読み、その上をゆく技を返す事で(「呪詛返し」の術)勝利を得ています。蔵人の少将のエピソードや智徳法師の時にしてもしかり。これが晴明の陰陽師として凄いところなのだという人もいます。確かに単に技を使うだけなら、どの陰陽師にも出来ること。それをさらに裏をかく技でもって相手を制するのは並大抵の術使いでは出来ないことです。

その15「ライバル道満 その2」
さて、前回のエピソードでの約束通り、この対決の後道満は、晴明の弟子になります。ところが・・・。
晴明が中国の唐に留学している間に、彼の妻梨花といい仲になった道満。道満は、晴明が中国での修行で得た陰陽道の奥義が書かれた書物『金烏玉兎集』(きんうぎょくとしゅう)を、梨花をだまして盗み出します。そして、道満は晴明に「自分は夢の中で文殊から『金烏玉兎集』を得た」と嘘をいいました。それを聞いた晴明、「そんなはずはない」と、自らの首をかけて道満と戦います。道満は盗んだ時に書き写しておいた『金烏玉兎集』を懐から取り出すと、晴明を殺してしまいました。それを知った晴明の中国での師、伯道上人は彼の骨を集め、秘術によって彼を生きかえらせます。
「晴明は生きている」と告げる伯道上人。道満は「もし生きていたら、自分の首をやる」といいます。生きかえった晴明は道満の首を斬り、彼が奪った『金烏玉兎集』を焼却しました。(『ほき抄』『安倍晴明物語』より)

この話は、実際にあった話ではなく、後から作られた作り話だと言われています。

というのも、一つには晴明が留学したという中国の「唐」。時代的に見てみると、この時、中国には唐という国は存在しませんでした。存在していたのは、年代から察するに「宋」ではないかと言われています。それからもう一つ。中国での師である伯道上人という人物、『ほき内伝』を著し、陰陽道の奥義を極め、千年も生きた人物らしいのですが、この人どうやら架空の存在らしい。それにこのお話には、その存在が文献に残っていないことから、謎の人物とされている晴明の妻の名前まではっきりと記されています。以上のことから、このお話はフィクションではないかと言われているわけです。

江戸時代(一七〇〇頃)、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界では、晴明と道満の対決物が流行しました。歌舞伎のようなスペクタル演劇は、元あった小さな事実に脚色を加え、その時代の風刺を巧みに物語の中に織り込めながら壮大な物語を作り上げていきます。上の話はおそらく、晴明と道満の宮廷での対決事実をもとにして作ったのでしょう。道満は晴明のような朝廷つきの陰陽師ではなくて、民間の陰陽師でした。裏では国を痛烈に批判しながら、表向きは勧善懲悪の世界の出来事としてうまく片付ける歌舞伎の世界。朝廷お墨つきの立場の晴明は、正義として、それに対して民間の立場である道満の存在は悪として描きやすかったのではないかと思います。

その16「泰山府君の術」
【ライバル道満 その2】のエピソードでは、道満は、陰陽道の奥義が書かれた書物『金烏玉兎集』を晴明から盗み出します。この話はフィクションだとは言いましたが、ここの部分だけは事実のようです。というのも、道満が晴明に近づいた本当の理由は、秘術中の秘術「泰山府君の術」が知りたかったからだという説があるからです。「泰山府君の術」とは、人の魂を祈祷で取り替える術で、朝廷が門外不出とした術でしたから、当然ながら、民間の陰陽師という道満の立場からは、決して学ぶことのできない術でした。

晴明はこの術が得意でした。彼が死者をよみがえらせた話をいくつか取り上げてみます。

『今昔物語集』には、三井寺の高僧の命を助けた話が、『私聚百因縁集』には息子の命を自分の命と引き換えにしてでも助けてほしいと頼む親に対して、両方の命を助けた話、『蘆屋道満大内鑑』では、当時少年だった晴明が、悪右衛門に殺された父親保名の命をよみがえらせた話、又別の伝説では、道満に争って負けた保名の命を一条戻り橋の下でよみがえらせた話などが残っています。
立てなければなりません。『私聚百因縁集』では命の取り替えを願うのは、親です。親ならば子供の命を助けたいと望むのは、当然でしょうから、身代わりになるのもかまわないでしょうが、それが、他人となると話は別です。高僧の命を救う話では、誰か身代わりになる人はと尋ねられた時、皆自分の身可愛さに手を上げませんでした。立候補に手を挙げたのは、意外にも普段からあまり目をかけられていなかった人物でした。
『今昔物語集』『私聚百因縁集』両方の話とも、身代わりになった人、死んだ人どちらの命も晴明は助けています。こういう点が実に私は凄い人だと思いますし、魂の優しさを感じます。

その17「鬼」
平安時代には、怨霊だけでなく、恐ろしい鬼もいたようです。
源頼光の時代、鬼達は、都の人々を食い殺し、貴族の娘をさらい、都中を荒らしまわっていました。都を騒がすものの正体を晴明が占いによって見破ります。「それは、酒呑童子という鬼の仕業である」と。そこで頼光の四天王と呼ばれる人々、渡辺綱・坂田公時(金太郎のモデルとなった人)・卜部李武・碓井貞光が、天皇に命ぜられ大江山の鬼退治に行くという話が『大江山絵詞』には書かれています。(この時、晴明六十九歳。歳が歳だけに、鬼退治には同行せず、都の防衛を担当しました。)

下の話は四天王の一人、渡辺綱が鬼に出会った時の話です。

渡辺綱が、頼光の使いで一条大宮まで行ったときのこと。その帰り道、一条戻り橋で女の人に声をかけられます。実はこの女の正体、家まで送ってほしいといっては、男を食い殺す恐ろしい鬼でした。「送っていってさしあげよう」と申し出る綱を見て、我が意を得たりと正体をあらわした鬼。しかし、綱は鬼を見ても少しもあわてず、腰に刺した刀を抜いて鬼の片腕を切り落としました。
綱が差し出した鬼の腕をみて、頼光は当時播磨の守であった晴明を呼び出します。晴明は「綱には、七日間の暇を与えて物忌みをすべきだ」といいました。さらに、鬼の手に封印をして綱に仁王教を読むよう指示します。
法会を開始してから六日目のこと、綱の義母に姿を変えて鬼は片腕を取り戻しにやってきました。「どうしても鬼の片腕を見せてほしい」と言う義母の頼みを断りきれなかった綱。腕の入った箱をあけた瞬間、鬼は正体を著し、自分の腕を取り戻すと彼の破家を突き破って逃げ去っていきました。

当時、本当に鬼がいたのかどうかはわかりません。
ただ、木山敏江さんという漫画家の方が書かれた『大江山花伝』という本によると、鬼とは、人の醜い心が具現化したものだそうです。鬼といい、怨霊といい、人間の醜い心は、その想いが深くなると時には、人間ではない何物かに姿を変えてしまう。晴明はこんな醜い人間の心を慰めるために陰陽師という仕事をしていたのです。

その18 晴明の失敗
完璧な晴明にも失敗はなかったのでしょうか?
『小右記』という本には、晴明が始末書を出した話が載っています。
九八八年、天皇、皇后は、突然現われた凶兆に、物忌みを行いました。その際、祭りによる供養を命じられましたが、これを担当するはずの晴明がなんと祭りを放棄したとあります。
このとき晴明六十八歳。連日の仕事、仕事で疲れていた晴明、たまには、休みたかったのでしょうか?それとも他に何か深い訳があったのでしょうか?
もう一つ、九八七年晴明の家に落雷が落ち、家の一部が破損したという事件が起こりました。(『日本記略』)占い師は自分のことは占えないと良く言われますが、大陰陽師と呼ばれた晴明でさえも、自分のことは占えなかったのでしょうか?

最終回 晴明の後を受け継いだ息子達
晴明は、陰陽頭(陰陽寮の中でも最高の地位)にはなれませんでしたが、代わりに賀茂家が独占していた天文道と暦道のうちの、天文道を譲られました。
私生活では、2人の息子に恵まれました。
長男吉平は、あまりぱっとしない人でした。地位は父親よりも高い位まで出世しましたが、日でりを止めさせ、雨を降らせる儀式では、雷は鳴れども、雨を呼ぶことはできなかったという情けない記録が残っています。一方、次男吉昌の方は、賀茂保憲に可愛がられ、陰陽頭にまでなっています。
そして、吉平の4人の息子達、つまり晴明からみれば、孫にあたる人達に優秀な人材が多く生まれました。
隔世遺伝ですね。彼らによって、安倍の力は全国的に広がり、賀茂家と並ぶほどの優秀な家になりました。そこで、名前を土御門と変え、やがて、戦国時代になって賀茂家の血筋が絶えてからは、暦道も安倍家が独占することになり、陰陽道は全て安倍家が独占することになります。そして、現在へと続く訳ですが、これらすべての元を作ったのは、安倍晴明でした。

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