新選組
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| 京都の中心・河原町四条~三条。幕末は各藩邸が軒を連ね、志士達が闊歩していた。新選組隊士達も市中取り締まるため、又は祇園で遊んだ帰りに!?歩いたであろう四条~三条。池田屋事件も三条河原町付近での出来事だ。新選組に思いを馳せつつ三条~四条を歩いてみた。 | ![]() |
| おすすめコース~黒谷~四条~三条~ | |
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| 京阪丸太町駅 ↓(徒歩15分) |
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| 金戒光明寺 ↓(徒歩15分) |
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| 京都守護職屋敷門 ↓(徒歩10分) |
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| 八坂神社 ↓(徒歩1分) |
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| 祇園会所跡 (現ローソン) ↓(徒歩5分) |
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| 一力亭 ↓(徒歩5分) |
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| 南座 ↓(徒歩1分) |
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| 四条大橋 ↓(徒歩5分) |
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| 桝屋跡 (現・料理店・志る幸) ↓(徒歩12分) |
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| 四国屋跡 (現・料理旅館金茶楼) ↓(徒歩1分) |
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| 池田屋騒動跡 (現・パチンコ店) ↓(徒歩2分) |
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| 三条大橋 ↓(徒歩2分) |
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| 三条会所跡 (現・有喜そば) ↓(徒歩3分) 京阪三条駅 |
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| 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ) | ![]() 広い敷地の中には会津藩士が眠る。 |
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「黒谷(くろだに)さん」の名前で親しまれる金戒光明寺。京都守護職に任命された会津藩主松平容保が入洛した文久2(1862)年11月からの約一年間、ここを本拠地としていました。 そのため光明寺の墓所には幕末に死んだ会津藩士達が眠っています。 本堂や三門は江戸時代当時のままの姿で残っています。
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| 京都守護職屋敷門(きょうとしゅごしょくやしきもん) | ![]() 現在は平安神宮の 駐車場に移築されています。 |
平安神宮の前の道を西に進むと、主に観光バスが停まる大駐車場があります。この駐車場に建っている門が、かつての京都守護職屋敷の門でした。ここ、平安神宮に移築されてからは何気なく建っていますが、当時の面影を残している建物です。
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| 八坂神社(やさかじんじゃ) | ![]() 祇園石段下で谷三十郎が 謎の死を遂げた。 |
参拝者で賑わう八坂神社の石段。慶応2(1866)年4月ここ・祇園石段下で七番隊組長・谷三十郎が謎の死を遂げた。弟・昌武が近藤勇の養子になって鼻高々になっていた谷だが、田内知の介錯失敗で評判はガタオチ。近藤の命を受けた斎藤一に暗殺されたとも、酒席のケンカが原因とも、脳卒中による急死だったとも言われるが真相は謎のまま・・・。 又、文久3(1863)年京阪合併の相撲興行が行われ、新選組が警備に出動したという。その相撲大会が祇園北林、今の八坂神社の境内の北側で行われたそうだ。
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| 一力亭(いちりきてい) |
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四条通を東へ。祇園を目指す。花見小路の角に赤壁に犬やらいの風格ある建物が目に入る。ここが現在でもお茶屋として営業を続けている一力亭だ。歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助も遊んだ伝統あるお茶屋。(実在の大石内蔵助の方は伏見の橦木町の遊郭で遊んでいる。) 文久3(1863)年、一力で諸藩周旋方の会議があった。新選組の代表として局長・近藤勇もこの会議に出席している。
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| 南座(みなみざ) | ![]() 新選組隊士が 大騒動を起こした南座。 |
京阪四条の駅を出ると南座の大きな提灯と建物が見えてくる。
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| 四条大橋(しじょうおおはし) | ![]() 四条大橋。ここで浪士隊の草創期、 殿内義男が近藤一派によって 惨殺され、一つの派閥が消えた。 |
祇園を西に戻り、様々な人が行き交う四条大橋を渡る。四条大橋は新選組の斬り合いの舞台となった場所でもある。 慶応3(1867)年1月には沖田総司、永倉新八、斎藤一の3人が十津川郷士・中井庄五郎、土佐藩士・那須盛馬と四条大橋で出会い、斬り合いになったという。中井はこの時は危うく脱出しているが、後、天満屋で斎藤一と邂逅を果たし、斬り殺されている。
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| 桝屋跡・志る幸(ますやあと・しるこう) | ![]() 志る幸横の古高俊太郎邸跡の碑 ![]() 汁ののれんに誘われる |
四条河原町を一筋上がって東へ。河原町と木屋町の間あたりのほの暗い路地に「汁」と書かれたのれんがはためく古風な建物がある。隣には「勤王の志士 古高俊太郎邸跡」と刻まれた石碑がひっそりとただずんでいる。ここが利休弁当やみそ汁で有名な「志る幸」。薪炭商・升屋喜右衛門宅跡である。池田屋事件はここから始まった。 元治元年6月5日早朝、新選組隊士が西木屋町の升屋に乗り込み、以前から怪しい動きのあった主人の喜右衛門を捕縛し、壬生の屯所に連行した。前川邸の土蔵で升屋の取り調べが行われたが、「本名は古高俊太郎」と名乗るのみでなかなか口が堅い。たまりかねた土方歳三が五寸釘責めの拷問にかけたところ、古高は恐るべき計画を白状した。「風の強い日に京都市内に火を放ち、御所を焼く。混乱に乗じ天皇を連れ 出し、長州に送る。松平容保や佐幕派の公卿も襲う。」と。升屋内の探索の結果、具足、槍、木砲、弓矢、火薬など大量の武器が押収され、計画が着々と進行していることを物語っていた。危機を感じた新選組は陰謀を企てていた古高の仲間の志士達の探索に立ち上がった。 古高俊太郎(升屋)邸跡・志る幸ののれんをくぐると、タイムスリップしたような気分になった。木の番台や招き猫、だるま、木札のお品書き。京都市が発行した「古高俊太郎邸跡」という案内札も黒ずんでいてだいぶ年期が入っている。案内された席はぎぼしが付いた机だった。 「あちらが三条大橋、こちらが五条大橋を表しているんです。」というお店の方に「この建物はいつごろ建てられたんですか?古高俊太郎さんのさんの家だったそうですが?」と聞いてみると、「うちは昭和7年の創業で、幕末当時のものは何も残ってへんのどす。」とのこと。ちょっと残念・・・。
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| 池田屋騒動跡(いけだやそうどうあと) | パチンコ屋の前に建つ 「池田屋騒動之址」碑 |
パチンコ屋の前に「維新史蹟 池田屋騒動之址」の石碑が建っている。 6月5日夜10時頃、少数精鋭の近藤隊(近藤、沖田、永倉、藤堂、周平)5人は探索の末、三条小橋西入ルの旅籠・池田屋に辿り着いた。 池田屋の2階では志士達が古高奪還と陰謀の実行について話し合っていた。「ご用改めでござる!」近藤の一声と共になだれ込む隊士達。壮絶な斬り合いとなった。暫くして縄手付近を探索していた土方隊も合流して加勢した。2時間ほどの斬り合いだったという。 志士側では長州の吉田稔麿、杉山松助、土佐の望月亀弥太、肥後の宮部鼎蔵ら大物志士達が亡くなった。話し合いに参加するはずだった長州の桂小五郎は近くの対馬藩邸(現在の朝日会館)にいて無事だった。新選組では奥沢栄介、新田革左衛門、安藤早太郎(墓は壬生寺にある)が亡くなり、藤堂と永倉らが負傷した。 主人の池田屋惣兵衛も翌日捕まり、六角獄に入れらた後に獄死している。捕縛された古高俊太郎も又、六角獄に入れられ、獄死した。
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| 三条大橋(さんじょうおおはし) | ![]() 三条大橋下から 高札場跡を望む。 ![]() 三条河原と三条大橋。 近藤勇の首もこの辺りに晒された? |
目の前に広がるは人々行き交う三条大橋は東海道五十三次の終点に当たる。橋の西南端には近年「弥次さん喜多さん」の銅像も建てられた。江戸から京都に出てきた浪士組(新選組の前身)も三条大橋を渡った時、「京都に来たんだなあー。」と感慨にとらわれたことだろう。 三条大橋の東北の西詰め北側のたもとに(現在スターバックスがある側)に幕府の高札を掲げる制札場があった。現在は沢山の自転車が止められ、土袋が積まれ、制札場の面影は全くないが、明治6年に取り壊される前は、石垣と木の柵に囲まれていたという。 慶応2(1866)年、長州藩を誹謗する高札が立てられたが、これが何者かに墨で塗りつぶされたり、引き抜かれたり、川に投げ込まれたり・・・。何度立てても結果は同じ・・・。業を煮やした奉行所は、新選組に監視を命じた。原田左之助、大石鍬次郎、新井忠雄らが橋の付近の会所や町屋に分かれて潜み、浅野薫・橋本皆助は乞食に扮装して橋の下から見張った。 夜、不審な一団がやってきて高札を引き抜き、川に投げ込み始めた。乞食変装組も原田隊も異変に気づき、斬り合いになる。捕らえてみると犯人は8名の土佐藩士だった。土佐藩士は2名が死亡、1名は屯所で尋問の後、奉行所へ引き渡され、残りは逃亡した。土佐藩は新選組と不和になってはまずいということで、近藤、土方、伊東らを祇園に招待して1席設けたという。 乞食に扮して三条大橋の下、というのは潜伏の常套手段だったのだろう。桂小五郎も朝敵となって逃げ回っている時は乞食姿で三条大橋の下だった。それが一番怪しまれない方法だったのだ。 |
| 三条会所跡(さんじょうかいしょあと) | ![]() 今の有喜そばの辺りの 三条会所に原田隊は待機した。 |
三条大橋の西南側から橋の下に潜ることができる。橋の下は整備され、鉄杭で補強されてはいるが、橋の上の喧噪が嘘のように静かだ。橋の下から制札場のあったあたりを覗いてみると、なるほどよく見える。乞食組の浅野薫達からも高札を抜く土佐藩士の姿がよく見えただろう。 三条大橋から原田隊が隠れた三条会所跡までは徒歩2分。先斗町歌舞練場の隣、現在は有喜そばの店がある辺りだが、ここから大橋の制札場にも早く駆けつけられたに違いない。ただし、ここから直接橋は見えないから、乞食組より早く異変を察知したともいわれる原田左之助の洞察力には脱帽だ。 2年後の慶応4(1868)年、局長近藤勇は戦いに敗れ、東京板橋で斬首。首のみが京都に送られ、思い出深い三条河原に晒された。まるで生きているような顔だったという。その後の近藤の首の行方は誰も知らない・・・。 浪士隊の京都入りから、高札事件の取り締まり、近藤の首が晒されるまで、新選組の栄枯盛衰をずっと見守ってきた三条大橋は今もなお、京の人々の往来を見守っている・・・。
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