新選組
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| 慶応3(1867)年、12月、王政復古の大号令とともに京都所司代が廃止。 新選組も「新遊撃隊御雇」と改称され、大坂へ向かった。 ほどなく伏見奉行所に陣を敷き、鳥羽伏見の戦いに突入。 剣豪揃いの新選組も薩長軍の砲撃にはかなわず、多数の死傷者を出し、淀~大坂へ退却。 ついには思い出深い京都を後に、江戸に帰還することになる。 落日の新選組の伏見での足跡を追う。 |
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| おすすめコース~伏見~ | |
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| 地下鉄十条駅 ↓(徒歩5分) |
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| 銭取橋 ↓(徒歩15分) 京阪伏見稲荷駅 ↓(京阪電車5分) 京阪墨染駅 ↓(徒歩7分) |
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| 藤森神社 ↓(徒歩5分) |
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| 近藤勇遭難の地 ↓(徒歩25分) |
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| 御香宮 ↓(徒歩6分) |
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| 伏見奉行所跡 ↓(徒歩4分) 京阪伏見桃山駅 ↓(京阪電車4分) 京阪淀駅 ↓(徒歩1分) |
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| 淀城跡 ↓(徒歩5分) |
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| 淀小橋跡 ↓(徒歩10分) |
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| 千両松 ↓(徒歩15分) 京阪淀駅 |
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| 銭取橋(ぜにとりばし) | ![]() 勧進橋とその下の土手。 新選組はこの辺りに布陣した。 ![]() 勧進橋は銭取橋と呼ばれていた。 |
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新選組伏見ツアーのスタートは地下鉄烏丸線十条駅から。十条通を東へ。竹田街道十条の交差点斜めの道を下がって少し行くと鴨川にかかる大きな橋がある。ここが勧進橋。お稲荷さんに寄進するためのお金を取るため、俗名銭取橋と呼ばれていた。 元治元(1864)年6月、池田屋事件を聞きつけて長州勢が大挙して京へ押し寄せてきた。会津藩の命を受け、会津藩兵や見廻組など幕府諸隊も九条河原に布陣、新選組も銭取橋下に誠の旗を翻して布陣した。これが禁門の変に繋がっていく。 銭取橋は又、慶応2(1866)年6月、武田観柳斎が薩摩藩と内通していたとして斎藤一に斬られた場所ともされるが、実際には除隊を許され、故郷の出雲に帰る途中に竹田街道に差し掛かった時に斬られたという説も有力だ。現在は夜でも車の絶える事がない勧進橋だが、当時は勧進橋を渡って本街道へ出るまでは夜は人通りも少なく、寂しかったそうだ。武田もスゴ腕の斎藤一と共に銭取橋を渡るのは生きた心地もしなかっただろうな。実際に殺されてしまったけれど・・・。 現在の勧進橋はコンクリート作りの堂々とした橋だ。車や自転車が絶え間なく通り、排気ガスで空気は悪い。新選組が布陣したのは勧進橋の西側。河原は広く、自動車が駐車されている。鴨川には水鳥が舞っていた。 勧進橋(銭取橋)を渡って少し行くと稲荷新道の石碑が見える。東へ折れて500mほど歩くと京阪伏見稲荷駅だ。駅の中まで朱の柱にお狐様というお稲荷さん仕様の駅から京阪電車の普通電車で3駅。墨染へ向かう。
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| 藤森神社(ふじのもりじんじゃ) | ![]() 藤森神社本殿。 宝物館内の伏見の古地図は必見! |
京阪墨染の駅を出て直違橋通(旧伏見街道)を北へ300mほど行くと藤森神社がある。勝負の神を祀る紫陽花の美しい神社だ。 境内に宝物館がある。きれいな作りなのに見学料は志納、ということ。嬉しい限りだ。流鏑馬神事が行われることから馬の博物館を併設しており、全国各地の馬の置物が展示されている。平安時代~幕末までの刀剣や鎧、そして戊辰戦争で使用された鉄砲も展示されていた。新選組も鉄砲には苦戦した。どんなに大きいものかと思ったら意外に小さいので驚いた。必見なのが天保年間に描かれたという伏見の地図。藤森神社をはじめとして近藤勇が撃たれた付近にあったという尾州藩邸、薩長軍がここから砲撃したという御香宮、新選組が陣を敷いた伏見奉行所も描かれている。これから行こうとしているスポットの昔の姿をしっかり確認しておこう。
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| 近藤勇遭難の地 (こんどういさみそうなんのち) | ![]() 現在の墨染の町並み。 近藤はこの辺りで撃たれたのだろうか? |
慶応3(1867)年12月18日夕刻、近藤勇が二条城からの帰り、御陵衛士の残党(先日油小路で頭の伊東甲子太郎ら4人を新選組に討たれたばかり)に伏見街道墨染の辺りで狙撃される事件があった。右肩に銃弾が当たり、相当重傷だったようだが、近藤はそのまま馬を走らせ、自陣である伏見奉行所まで戻った。お供の隊士の石井勇之進と馬丁はその場で斬殺されている。近藤はこの時の傷が原因で大坂で療養生活を余儀なくされた。 さて、近藤が狙撃された場所はどこだったのだろう?御陵衛士の残党達は藤森神社の南北に分かれて挟み撃ちにしようと鉄砲を用意し、墨染の民家に身を潜めていたという。すると藤森神社付近だろうか?しかし薩摩藩の報告書や元御陵衛士の阿部十郎の証言によると墨染から約1km南の伏見街道丹波橋筋付近(現在の国道24号線沿い、市バス丹波橋バス停付近)だったとも言う。街道が屈曲している尾張藩邸付近、という証言(ここは藤森神社で見た伏見の古地図によると丹波橋付近に重なる。)もある。近藤遭難の地の決め手が見つからないまま、藤森神社~丹波橋まで伏見街道沿い(直違橋通~国道24号線)を歩いてみた。 途中何人かの人に「新選組近藤イサミの撃たれた場所はご存知ありませんか?」と聞いて回ったが、「近藤イサムの撃たれた場所ねえ、知らへんなあ。」の返事しか返ってこなかった。余談だが、京都の年配方は近藤の名前を「イサミ」ではなく「イサム」と発音される。祇園などの花街には「近藤イサムが・・・♪」という歌が芸妓達の間で歌い継がれているそうだ。「近藤イサム」、京都弁なのだろうか?? 話が横道に逸れたが、近藤狙撃地点は「ここや!」という確定はできないままに終わってしまった。今までうろついてきた伏見街道沿いの藤森神社~墨染~丹波橋のどこかで撃たれたということしかわからず、心にもやもやを抱えたまま、24号線を更に南下した。
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| 御香宮(ごこうのみや) | ![]() 伏見城大手門を移した御香宮表門。 ![]() 境内の伏見の戦い跡碑。御香宮からの砲撃に幕府軍は敗退した。 |
国道24号線を南へ行くと「安産の神・御香宮神社」という看板が目に入った。ここが次の目的地・御香宮。伏見城の大手門を移した表門、伏見義民の碑、桃山建築の拝殿、小堀遠州の石庭など、見所は多い。本殿横からは御香水が湧き出し、水を汲む人々がペットボトル片手に列をなしている。飲んでみるとほんのり甘い。ペットボトルを持って来ればよかったとちょっと後悔する。 さて、見所の多い御香宮だが、大本命の戊辰戦争の碑が見当たらない。神社の方に聞いてみると、「拝殿の右の駐車場の奥です。」とのこと。車の奥に隠れるようにして佐藤栄作筆の「明治維新 伏見の戦跡」の石碑と説明板があった。鳥羽伏見の戦いの時、薩長軍(西軍)は御香宮の東側の山の上に大砲を構え、大手筋を挟んで目と鼻の先の伏見奉行所に陣を置く幕府軍(東軍)に砲撃した。土方歳三率いる新選組も刀槍で応戦したが、大砲の力には勝てず、退却した。御香宮には京都城南会作成の戊辰戦争戦死者名簿があって新選組の戦死者24名の名前も載っているそうだ。
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| 千両松(せんりょうまつ) | ![]() 碑を動かしたところ 新選組の幽霊が出たという 今は綺麗な石碑が建つ。 ![]() ここで激戦があり、 井上源三郎ら多くの命が散った。 ![]() 比較的新しい松は二代目!? |
京阪電車の線路に沿って、北東に歩く。右手は巨大な競馬場。淀駅から15分くらい歩いてやっと駐車場の入り口に辿り着いた。ガードの下にお地蔵さんと大きな石碑とお墓が三基並んで建っている。お地蔵さんと石碑の間には小ぶりの松(幕末のものではないらしい)が。お墓の横には「史蹟戊辰役 東軍西軍激戦の址」の古ぼけた碑が立つ。この碑に対してお墓と石碑の方は新しく見える。 ここが戊辰戦争で東軍と西軍の激戦が繰り広げられた千両松だ。千両松とは豊臣秀吉が宇治川堤に植えた松が見事だったことから付いた名前。 慶応4年1月5日、土方歳三率いる新選組は伏見から攻めてくる薩長軍を防ごうと、宇治川堤上は大激戦地となった。この戦いで戦死者が続出。新選組草創期からの幹部・井上源三郎が討ち死に、監察・山崎烝も重傷を負った。 この辺りには千両松の激戦で戦死した新選組の隊士と幕臣の慰霊碑が忘れられたようにポツンと建てられていた。ところが競馬場拡張の工事のために小さな碑が削られてしまった。事故が続出した。紫地に誠の旗を持った新選組の幽霊が「もとの所に返せ!」と毎晩現れるというのだ。慌てた工事関係者は慰霊碑の管理寺院の妙教寺に依頼し、盛大に供養を行った。そして工事終了後、同じ場所に碑を据え直し、墓を整備した。それ以来、幽霊は出没しなくなったという・・・。 新しい慰霊碑は昭和45年の建立。建立当初は誠の旗も立てられていたそうだ。現在は旗はないが、30年の年月を経ているとは思えないほど綺麗に手入れされ、花も毎日取り替えられている様子だ。淀にはこの他にも妙教寺、納所団地入口、納所小横にも戊辰戦争の慰霊碑が建っている。その場所で戦没者の骨でも出たのだろうか?激しい戦闘が繰り広げられ、東軍西軍共に多数の死傷者を出した戊辰戦争。多くの名もない屍の上に明治政府は成立したのだ。 千両松の敗戦から新選組属する東軍は八幡~橋本と後退、思い出深い京都を後に、大坂に敗走。12日に新選組は、軍艦・富士山丸で天保山沖より江戸に帰った。その後は甲府で崩れ、板橋で近藤勇処刑、会津、箱館へと転戦、五稜郭での土方歳三の死を持って終焉を迎える・・・。 千両松で没した井上源三郎はじめ、新選組隊士達、そして東軍・西軍の戦死者達の冥福を祈りつつ、夕闇迫る淀路を駅へと向かった。
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