新選組
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| 徳川幕府が江戸で300年近く続いておりましたが、1853年ペリー率いる黒船が来航し、幕府の大老井伊直弼が米、蘭、仏、英と不利な条件かつ、天皇を無視した形で条約を締結した為、幕府内部にも批判が渦巻きました。 その結果、天皇を立て政治を朝廷に戻し、外国との条約を白紙撤回させ、国を閉ざす「尊王攘夷思想」が芽生え、吉田松陰らをリーダーとした勤皇の志士達が現れましたが、幕府が弾圧し処刑しました(安政の大獄)。大老井伊直弼は水戸藩士に刺殺されました。 尊王攘夷派の志士である土佐の坂本龍馬、長州藩士の桂小五郎らが、京都に集結してテロが横行し、京の町は無政府状態となりました。これを憂いた幕府は、孝明天皇の妹和宮を将軍家茂(いえもち)の嫁にもらい、朝廷との融和を図りました。そして、将軍警護と京の治安を守るために、会津藩主松平容保(まつだいら かたもり)を京都守護職にしました。 会津藩では家茂の警護の為、浪士隊を募集し、臨時武士を農民や浪人から登用しました。武士になりたい、世に出たいという気持ちだけで応募した人が多く、その数は240名にのぼり入洛しましたが、多くの浪士は、離脱して江戸に戻り、残ったのは近藤勇を始め、13名でした。 その後、京や大阪で再び募集をかけ、隊員を増やして24名になり、「京都守護職預かり」となり、手柄をたて、新選組の名を拝命しました。新選組は徳川幕府に忠誠を誓い、京都の警護にあたる幕府の警備隊であったのです。 しかしながら、寄せ集めの感は否めず、不埒な者もおり、統制をとるために、新選組は、隊の憲法とも言えるとても厳しい「局中法度」を制定しました。その為に掟を破った、芹沢や伊東らは暗殺されました。 新選組の「誠」の旗や羽織が、京の町で闊歩したのは、鳥羽伏見の戦いで敗走するまでの僅か5年間でありました。 戦後60年、日本の発展が続いて来たが、現在足踏み状態になり、今までの成長パターンでは行き詰まり現象が起き、未来の展望を決めなければならない時で、幕末と似た時期なのかも知れません。 幕末活躍した坂本龍馬や新選組の近藤勇らは20代や30代です。 今の日本の若者たちは、これをどう受け止めるのか、また、この新選組のドラマを契機として、日本の将来を考える若者の輩出をこの新選組のドラマは、願っているのではと思えます。 文久3(1863)年2月、江戸から将軍警護の名目で上洛した浪士隊は洛西・壬生村一帯に分宿した。浪士隊主唱者の清河八郎達が攘夷を唱え江戸に帰った後も、近藤勇、芹沢鴨ら一部の者は京都に残り、京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護の下、「新選組」を結成し、京都の警護に当たった。 当時の壬生村は水菜畑に囲まれたのどかな地だった。隊士達の投宿は平和な壬生村の住民にとって大事件だったに違いない。しかし、隊士の方は壬生の地を結構気に入っていたようで屯所移転後も、生き残った者は明治維新後にも、度々訪れている。 「壬生浪」と呼ばれ、京の人々に恐れられながらも、誠を貫き、警察活動を行った新選組。隊内粛清の嵐で京都に血の雨を降らせた感も強いが、実際のところはどうだったのだろう? 近年では、小説やドラマ、漫画の題材にも度々取り上げられ、ファンも増えている。 壬生入りから本願寺、不動堂村の屯所を経て、鳥羽伏見の戦いに敗れ、大坂に敗走するまでの5年間。新選組の屯所付近を中心に京都での足跡を追う旅。 第1弾は新選組発祥の地、文久3(1863)年2月~慶応元(1865)年4月までの約2年間屯所を置いた壬生界隈を紹介する。 |
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| おすすめコース~壬生~ | |
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阪急・京福四条大宮駅 ↓(徒歩4分) |
| 光縁寺 ↓(徒歩1分) |
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| 新選組馬小屋跡 ↓(徒歩4分) |
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| 旧前川邸 ↓(徒歩1分) |
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| 八木邸 ↓(徒歩1分) |
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| 新徳寺 ↓(徒歩1分) |
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| 壬生寺 ↓(徒歩15分) |
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| 島原~西本願寺編へ | |
| 光縁寺(こうえんじ) | 山南敬助らの墓と光縁寺の軒丸瓦。 ![]() 松原忠司、田内知らの合同墓。 |
| 新選組の足跡をたどる旅のスタートは阪急・京福の四条大宮駅。四条通りアークホテル横の細い道を南に入り、京福電車の踏切を渡る。綾小路通を右へ折れると「新選組之墓」という石碑が門前に立つ寺があった。ここが光縁寺。軒丸瓦は「丸に右離れ三つ葉立ち葵。」この寺紋が新選組の総長・山南敬助の家紋と同じだったことから親しく交流するようになったとも言われている。 門は閉まっていることもあるが、左側の小門から入ることができる。庫裏で墓参料を払い、本堂脇の道を通って墓地へ。 新選組関係者の墓は墓地の東北奥の4基。最奥の1段高い所には比較的新しい(昭和51年建立)沖田氏縁者の墓がある。沖田総司の内縁の妻とも推測されている謎の女性である。左隣は総長・山南敬助ら5名の合同墓。山南は剣の腕も立ち、学も人望もあったが、慶応元年、屯所移転問題などで新選組の現状を憂い?脱走をはかり、壬生屯所(前川邸)で切腹した。その左隣は大石造酒造(おおいしみきぞう)の墓。彼自身は隊士ではないが、祇園で新選組の今井裕二郎に惨殺された。兄の隊士・大石 鍬次郎の繋がりでここに葬られたのだろうか?その左隣は松原忠司、櫻井勇之進、田内知ら12人の合同墓。又、油小路の変で亡くなった伊東甲子太郎、藤堂平助ら4人も最初は光縁寺に葬られたが、後に戒光寺に改装された。 光縁寺に葬られた新選組隊士や関係者達の顔ぶれを見ると、切腹や暗殺など、非業の死を遂げた人々が多い。胸の締め付けられる思いで、4基の墓にそっと手を合わせた・・・
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| 新選組馬小屋の跡(しんせんぐみうまごやのあと) |
光縁寺の西南角、綾小路通を南に入った路地の左手に、かつては新選組の馬小屋があったそうだ。現在は住宅と駐車場になっている。路地突き当たりには中学校のグランドがある。新選組が屯所としていた前川邸の敷地内にも馬小屋があったそうだが、手狭になったため、光縁寺付近にも馬小屋を作ったのだろうか?
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| 旧前川邸(きゅうまえかわてい) | ![]() 旧前川邸外観 |
| 光縁寺から綾小路通を西へ4分ほど行くと、風格のある建物が見えてくる。ここが新選組屯所跡・旧前川邸。文久3年、近藤・芹沢ら浪士組が京都に残ることを決めて以来、隊士達は斜め向かいの八木邸とここ前川邸に分かれて住んだ。前川一家は新選組に屋敷を占領され、油小路六角の本家の方へ移らざるをえなかったという。現在は田野製袋所となっていて残念ながら内部は非公開だが、建物はほぼ当時のまま残っている。 芹沢派で最後まで残った野口健司が切腹した出格子窓の部屋。池田屋事件の前に古高俊太郎が五寸釘責めの拷問を受けた土蔵。総長・山南敬助が脱走の罪で切腹した八畳間。(前の晩、恋人の明里と別れを惜しんだ出窓は取り払われている)この家は多くの血が流れるのを見てきたことだろう。 「会津 新選組隊長 近藤勇」「勤勉 努力 活動 発展」と落書きされた雨戸、隊士の付けた刀傷など、内部には貴重なものも残っている。外観を眺めるだけでも新選組の生活が偲べる建物だ。
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| 八木邸(やぎてい) | ![]() 八木邸外観 ![]() 入口に「新選組遺跡」の石碑が立つ。 ![]() 近藤勇像だけは撮影OKとのこと。 |
| 前川邸前の綾小路通を左に折れると「新選組遺蹟」という石碑が目に入る。立て看板には「新選組屯所公開中」との文字が。重厚な構えの長屋門をくぐる。ここが新選組の屯所となった八木邸だ。 文久3(1863)年2月、江戸から来た浪士組は壬生に入り、近藤勇・芹沢鴨ら13名がここ八木源之丞邸を宿舎とした。以来慶応元年、西本願寺に移るまでここを屯所とし移転の後も隊士は懐かしがって度々遊びに来たそうだ。 内部はガイドさんが案内して下さる。玄関を上がると番所三つ道具と言われる魔除けの道具が架けてある。仏間への入り口は刀を振り回せないようにわざと低くしているそうだ。 文久3年9月16日夜、局長芹沢鴨、妾お梅、平山五郎が就寝中刺客(土方・山南、沖田、原田)に暗殺された。入ってすぐの仏間に寝ていた平山がまず犠牲となり、次に奥の床の間にいた芹沢鴨とお梅が襲われた。芹沢は床の間に架けてあった脇差しで応戦したが、隣の部屋の文机につまずいて転んだところを斬りつけられ、絶命したという。縁側沿いの部屋の鴨居にはこの時斬りつけられた刀傷が残っている。深さ約2cm。Vの字型の刀傷は惨劇の凄まじさを物語っている。芹沢がつまづいたという黒ずんだ文机も見ることができる。 座敷には、近藤勇像が置いてある。ケヤキの一木造りで四角張った近藤の特徴をよく捉えている。彦根の彫刻家の作品だそうだ。芹沢の殺された部屋で近藤が睨みを利かせているとは、何とも皮肉なものだ。縁側からは緑が美しい中庭が見える。新選組のいたころは縁側から二条城が見渡せたそうだ。土間にある広い台所も見学できる。 館内は写真撮影は禁止(近藤勇像だけはOK)だが、絵はがき(\800-)が販売されている。その中の1枚に八木家のお通夜の時に書かれた「野辺帖」(芳名録)があった。近藤勇、沖田総司、斎藤一らが署名をしている。この時、局長の芹沢鴨と近藤勇が受付を買って出たという。芹沢と近藤が並んで受付をしたのは魔よけの道具が飾ってある入り口の間だ。 なお、現在、京都鶴屋がある辺りに八木家の離れがあり、そこに近藤勇達が生活していたそうだ。隊士達は八木家に親しみを持っていたらしく、屯所が引っ越した後も、明治維新後も時々訪れていたという。
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| 新徳寺(しんとくじ) | ![]() 新徳寺外観 |
| 八木邸の斜め向かいに新徳禅寺と表札を出している寺がある。ここが文久3(1863)年2月、江戸から上洛した浪士隊が本陣とした 新徳寺だ。浪士隊の長・清河八郎は夜、総勢234名全員を新徳寺に集め、尊皇攘夷の大演説を行った。将軍警護の目的で上洛したのに、おかしい。早々に江戸に戻ることになった清河らに反して、芹沢鴨・近藤勇ら13人は京都に残ることに決めた。 新徳寺の本堂は当時とほとんど変わっていないそうだ。こぢんまりしていて234人を全員収容しきれるとは思えない。きっと庭や道にまで浪士達で溢れかえっていたことだろう。 内部は残念ながら非公開。外観を眺めるだけで当時の様子を想像してみよう。
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| 壬生寺(みぶでら) | |
| 綾小路、千本、仏光寺、坊城の通に囲まれ、広大な境内を持つ壬生寺は壬生狂言でも有名だが、新選組ゆかりの寺としても有名だ。中には壬生寺に屯所があったと勘違いされている方もいるくらいだ。(実際は近所の八木邸と前川邸) 新選組は壬生寺境内で軍事訓練をしていた。大砲の訓練までしていて、寺側はとても迷惑したらしく、朝廷に嘆願書を提出している。西本願寺に屯所が移されてからも「大砲の訓練は壬生寺で。」ということになって災難は逃れられなかった。 又、沖田総司が壬生寺の境内で近所の子供達と遊んでいたという話も有名だ。今、境内には保育園と老人ホームがあり子供が大勢走り回っていたり、お年寄りが日向ぼっこをしていたりとのどかな風景が見られる。 坊城通の門を入った右手には新選組隊士の墓「壬生塚」がある。一番目を引くのが一番奥の近藤勇像。口を真一文字に引き結び、いかめしい銅像だ。像の下にはファンが思いのたけを綴ったノート、隣には絵馬が沢山架けてある。かわいらしいイラスト入りのものが多い。左隣には近藤の遺髪塚、その横には会計方・河合耆三郎の墓がある。長細く、五輪の塔がちょこんと上に乗っているこの墓は隊費出納の不始末から切腹を申しつけられた河合のために遺族が建てたもの。その横には芹沢派の田中伊織(新見錦?)野口健司、池田屋事件で死亡した奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門ら7人の合同墓。その横には八木邸で暗殺された芹沢鴨と平山五郎の墓がある。少し小振りの芹沢らの墓は他の墓石に比べて新しい。元々は仏光寺通を挟んで向かい側にある壬生墓地(ここには八木家代々の墓がある)に葬られていたが、後に改葬されたそうだ。最近建てられた碑には、新選組顕彰碑や、100円を入れると三橋美智也の歌が流れ出す「ああ新選組」の歌碑がある。 本堂右手の寺務所では、永倉新八の「新選組顛末記」や沖田総司の本、壬生寺の案内記、各種新選組グッズや絵はがきなどを販売している。 壬生寺では毎年7月16日、祇園祭の宵山の日に墓前で「新選組隊士等慰霊供養祭」が開かれている。供養祭の後、京都新選組同好会さんが隊士に扮装して壬生寺~八坂神社までをパレードしているそうだ。
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