新選組

壬生 島原~西本願寺 伏見 黒谷~四条~三条 その他新選組 人物 年表

おすすめコース~島原~不動堂編~
map
新選組記念館
↓(徒歩4分)
島原西門跡
↓(徒歩3分)
角屋
↓(徒歩5分)
輪違屋
↓(徒歩2分)
島原大門
↓(徒歩5分)
島田魁家跡
↓(徒歩5分)
西本願寺
  ↓(徒歩4分)
天満屋事件跡
↓(徒歩1分)
北小路の変跡
↓(徒歩4分)
油小路の変跡
↓(徒歩1分)
本光寺
↓(徒歩2分)
伊東甲子太郎遭難の地
↓(徒歩2分)
近藤勇妾宅跡
↓(徒歩1分)
不動堂村屯所跡
↓(徒歩5分)
不動堂
↓(徒歩7分)
JR京都駅


新選組記念館(しんせんぐみきねんかん) 館長の青木さん
館長の青木さんと
自作の新選組パネル
新選組の小説やお酒
新選組の小説やお酒が並ぶ
中堂寺坊城郵便局を下ると手書き文字のノボリがはためく町家が見えた。ここが予約していた新選組記念館。

玄関に沖田総司の色紙と女の子の紙人形があった。他にも新選組のドラマ・映画のパネルが雑然と並んでいる。
入館料を払うと館長の青木さん自筆の大津絵、好きな隊士の名前と流派入りの短冊と絵馬がいただける。

1間目はズラリと並んだ新選組や幕末関係の小説・マンガ・雑誌・資料の山山山!!ほとんどが館長の青木さんのコレクションだが、ファンの方が送ってくれた本もあるという。中には絶版になっている貴重な本もあり、新選組のミニ図書館の趣だ。日野から取り寄せたという「新選組」という名の日本酒(¥2500-)も販売している。女性のファンが買い求めて行くことが多いそうだ。

奥の2間は青木さん自作の新選組パネルが所狭しと展示されている。中島登の隊士絵姿のパネルもあったそうだが、今は貸し出し中だそうだ。隊士や新選組の関わった事件、ゆかりの史跡の紹介などなど、とても詳しいパネルを読んでいると、時の経つのを忘れてしまいそう。

2階は町家ペンションあおきになっている。
  • 住所:下京区五条通坊城下ル
  • TEL:075-344-6376
  • 入館料:500円 (見学希望時はTELにて要予約)
  • 定休日:不定休
  • アクセス:JR嵯峨野線丹波口駅より徒歩3分


島原西門跡(しまばらにしもんあと) *
交通事故で何度も倒壊した島原西門。かつてはこのような姿だった。
住吉神社の鳥居の脇に「島原西門碑」という石碑が建っている。西門も近年まで保存されていたそうだが、昭和52(1977)年交通事故によって全壊し、門柱のみが復元された。しかし、平成10(1998)年再び交通事故によって壊れてしまったそうだ。近くに中央市場があって大型車両の出入りが激しいことが原因らしいが、残念なことだ。

壬生に屯所があった頃の新選組隊士達は西門側から入ることが多かったのではないだろうか?壬生から島原までは徒歩15分くらいだ。
  • 住所:下京区千本花屋町一筋上ル東入ル


角屋もてなしの文化美術館 (すみやもてなしのぶんかびじゅつかん) 角屋外観
角屋外観。

久坂玄瑞(長州)密議の角
久坂玄瑞(長州)
密議の角屋
「島原で遊ぶのには莫大なお金がかかりました。新選組隊士もそうそう足を運べなかったでしょうね。昔はこの辺りは一面の壬生菜畑で、壬生の屯所からも島原の灯りが見えました。」

金のない平隊士達は、島原のあかりを羨ましそうに眺めているだけだったとか・・・。壬生にも安い遊郭があって、平隊士は壬生の方に遊びに行くことが多かったそうだ。島原になじみの女がいた隊士達はたとえ幹部であっても資金繰りが大変だっただろう。

角屋の前には「久坂玄瑞密議の角屋」という石碑が建っている。豪商達がバックについていた長州や薩摩の方が金払いが良く、島原でもてたそうだ。遊びだけでなく、各藩の会議の場としても使われた揚屋・角屋。時には長州の志士達と新選組の来場が重なることもあり、女達は鉢合わさせないように気を使ったとか。

芹沢鴨は角屋での大宴会の後、酔って帰ったところを暗殺されている。伊東甲子太郎、斉藤一、永倉新八が3日間居続けて近藤・土方らの怒りを買ったのもこの角屋である。それだけ魅力的な場所なのだろう。

新選組関係では入り口と二階の刀傷、近藤勇の作と伝わる素朴な筆致の和歌の短冊、掛け売り禁止の古文書、ツケを完済した内容の古文書、芹沢鴨が斬りつけようとして暴れた臥龍の松、近藤勇が愛用した二階の青貝の間(要予約+800円)が見学できる。
  • 住所:下京区西屋敷揚屋町32
  • TEL:075-351-0024
  • 開館時間:10:00~16:00
  • 開館期間:3月15日~7月18日、9月15日~12月15日
  • 休館日:月曜日(祝日の場合翌日)
  • 入館料:一般1000円、中・高生800円、小学生500円(2階の特別公開料金を除く)


輪違屋(わちがいや) 輪違屋
新選組隊士も訪れた輪違屋
島原には一般民家や旅館でも風格のある家が多い。「この家やあの旅館も元は置屋でした。京都らしい間口は狭く、奥行きがある造りです。最盛期には30人以上の遊女を抱えてはりました。」

花屋町通を戻り、坊城通を上がったところに輪違屋(非公開)がある。赤の輪が二つついた軒灯りが印象的な建物だ。ここは現在も営業中のお茶屋で前回訪れた時は玄関に沢山の靴が並んでいた。5人の太夫さんが現役で在籍しているそうだ。

幕末には新選組隊士も輪違屋の妓と遊んだ。平間重助は芹沢鴨暗殺事件の時、輪違屋の糸里と寝ていた。伊東甲子太郎は輪違屋の花香太夫をなじみにしていたそうだ。近藤勇が「江戸繁盛記」の文章を手習いで書いたものが保存されている。

尚、輪違屋は妓達が在籍する置屋、前出の角屋は妓達を呼んで饗宴の場となる揚屋である。
  • 住所:下京区西屋敷中之町114
  • 内部非公開


島原大門(しまばらだいもん) 島原大門
柳たなびく島原大門。以前は「見返りの松」が植えられていた。
島原大門。現在はたなびく柳が印象的だが、当時は「見返りの松」と呼ばれる松が植えてあった。遊女と客はここでお別れ。客が何度も松を振り返ったところから付いた名前とか・・・。

「大門が島原の境界線で遊女達はここから外へ出ることはできませんでした。客と別れを惜しむ女達や客引きをする禿の姿も見られました。」新選組隊士達もここで馴染みの女と別れを惜しみ、何度も振り返ったのだろうか?

門の横には石の水槽の上に桶が積み上げられている。「この桶は火消し用です。火事が起こるとこの桶に水を汲んでバケツリレーのようにして消火したものです。」そういえば、角屋の中にも桶が積み上げられていた。島原では寝タバコが原因で火事が多かったそうだ。

  • 住所:下京区大門通花屋町


島田魁家跡(しまだかい いえあと) 島原大門
島田魁の家はこの辺り?
今では狭い路地
花屋町通を東に入って大宮通に出る1筋手前に細い路地がある。「この路地の奥に島田魁が住んでいました。戸籍もきちんと残っています。」

島田魁は新選組の伍長で、古くからの幹部。土方歳三に従って函館まで行ったが降伏し、後、妻の実家のある京都に戻ってきた。商売を始めたがうまく行かず、知人のツテを頼ってかつて屯所があった京都西本願寺の夜警となった。

この路地は当時とほとんど変わっていないという。隊一の巨漢・島田魁が狭い路地を通って出勤する姿を想像するとほほえましくなった。
  • 住所:下京区大宮旧丹波口下ル


西本願寺(にしほんがんじ) 西本願寺太鼓楼
西本願寺太鼓楼。
*
太鼓楼の説明板
島原口のバス停を過ぎ、大宮通を渡ると花屋町通りが少し北にずれていた。更に東へ。歩道を塞ぐように「新開街路碑」が立っている。「この道は明治になってから作られました。」雪が更に激しくなってきた。右手は西本願寺の敷地だ。

慶応元(1865)年3月、新選組は壬生から西本願寺境内に屯所を移した。隊士の人数が増え、壬生の屯所では手狭になったこと、壬生郊外にあったため、市中取り締まりに不便を感じての移転だった。東北角の北集会所(姫路市の本徳寺本堂として現存)と太鼓楼が屯所に使われた。

集会所は現在の総合庁舎と参拝会館の辺りにあった。太鼓楼は当時と同じ場所に現存している。新選組は境内で豚を飼い、鍋を作ったり、軍事訓練をしたので、音や臭気で寺側では大変迷惑したという。

慶応3(1867)年6月に新選組は近くの不動堂村へと屯所を移しているが、移転費用は西本願寺さんが全面的にバックアップしたそうだ。金を払ってでも出ていってほしかったんやろな。壬生の八木家にも前川家にも、そして西本願寺さんにとっても、新選組の来襲?は大迷惑な出来事だったのだ。

又、明治になって島田魁が守衛として勤務し、72年の生涯を終えたのも西本願寺の境内である。
  • 住所:下京区堀川花屋町下ル
  • TEL:075-371-5181
  • 拝観時間:5:30~17:00
  • 拝観料:境内無料
  • 西本願寺公式サイト


天満屋事件跡(てんまやじけんあと) 天満屋事件の碑
天満屋事件の碑

*
三浦を狙った中井庄五郎が警護の新選組に斬られた
「天満屋事件跡は知ってはりますか?目立たないところにあるんですよ。」正面通と交差する辺りにお地蔵さんの祠が。その左隣に「勤王之士贈従五位 中井庄五郎殉難の地」という石碑が建っている。毎日通っていてもつい見逃してしまいそうな小さな石碑。これだけでは、新選組が関連した事件の碑ということもわからないだろう。

慶応3(1867)年12月7日夜、旅籠天満屋に泊まっていた紀州藩の三浦休太郎を土佐の海援隊・陸援隊の残党達が襲撃し、警護していた新選組と乱闘になった。

前月、坂本龍馬・中岡慎太郎を暗殺させた黒幕が紀州の三浦だ、という噂が出回り、敵討ちが行われたのであろうか。三浦の護衛に斉藤一、大石鍬次郎らが当たったが、酒宴をしている時、襲われた。まず、居合いの達人・十津川郷士・中井庄五郎が三浦に斬りかかったが、行灯の火が消されて敵味方の区別がつかないまま斬り合いになってしまった。やがて「三浦を討ち取ったぞ!」という声が上がり、刺客達は引き上げた。

しかし、これは新選組が機転を利かせて叫んだもので、三浦は軽傷を受けただけで無事だった。三浦の物と思われていた首は実は中井庄五郎の首だったのだ。中井の首は無惨にも仲間によって古井戸に投げ捨てられた・・・。あはれなり!中井の首を刎ねたのは四条大橋で争ったことのある斎藤一だったとも言う。襲撃側では中井の他は数名が負傷、新選組側は近藤勇の親戚の宮川信吉が死亡、舟津釜太郎が重傷で後日死亡、4名が負傷。

このような惨事があったにもかかわらず、碑はあくまで控えめに建っていた・・・。
  • 住所:下京区油小路正面上ル西側


北小路の変跡(きたこうじのへんあと) 北小路通
新選組と紀州藩。天満屋事件の応援部隊が同志討ちしてしまった
天満屋跡より一筋南に「北小路通」がある。
「ここが天満屋事件の応援部隊が同士討ちをしてしまった所です。」

天満屋襲撃の報を聞きつけ、不動堂村の屯所から新選組の応援部隊が駆けつけた。同じく西本願寺からも紀州藩の応援部隊が駆けつけたが、お互い敵と勘違いし、油小路北小路で斬り合いになってしまったという。北小路の変という。幸い死亡者は出なかったが、本物の敵には逃げられてしまったそうだ。
  • 住所:下京区油小路北小路


油小路の変跡(あぶらのこうじのへんあと) 油小路七条の辻
油小路七条の辻。ここに伊東甲子太郎の死体が晒され、御陵衛士との壮絶な斬り合いがあった。
油小路を更に南へ。七条通りと交差する所が油小路七条の辻だ。慶応3(1867)年11月18日、近藤勇妾宅に招かれた帰りに新選組に暗殺され、本光寺前で息絶えた伊東甲子太郎。

伊東は新選組に途中参加し、参謀となったが後に尊攘を唱え、「孝明天皇の御陵を守る」との名目で15人の隊士とともに隊を分離、御陵衛士として高台寺塔頭・月真院に屯所を置いていた。

体はそこから約100mほど北の油小路七条の辻まで引きずられて、囮として晒された。深夜、伊東の遺体を月真院から御陵衛士達が引き取りに来た。月真院からここまでは早足でも40分はかかるだろう。

伊東の死体を駕籠に入れようとしたところを待ち伏せていた新選組が襲い、壮絶な斬り合いとなった。御陵衛士は藤堂平助、服部武雄、毛内有之助の3名が討ち死、残り4名は逃走した。藤堂平助は試衛館以来の同志。永倉新八はわざと藤堂を逃がそうとしたが、事情を知らない三浦常次郎に斬られてしまった。世に言う油小路の変である。

伊東・藤堂・服部、毛内の遺体はそのまま晒された。寒さの為、遺体はカチコチに凍り付いていたという。御陵衛士の残党が遺体を引き取りに来るのを待ったが2日待っても来ないので、光縁寺に運ばれ、翌年孝明天皇陵のある泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬された。

かつての同志が刀を交え、無惨にも死体が晒された油小路七条。今では交通量が多く、事故が絶えない場所だそうだ。
  • 住所:下京区油小路七条


本光寺(ほんこうじ) *
伊東甲子太郎終焉の地・
本光寺
慶応3(1867)年11月18日夜、御陵衛士頭の伊東甲子太郎は、近藤勇の妾宅の帰り、木津屋橋通を東に歩いていた。油小路通りに差し掛かった時、新選組の刺客に襲われた。付近の板囲いの中から突然槍が突き出されたという。深手を追いながらも防戦したが、法華寺(本光寺の事)の門前の石碑に倒れかかり、「奸賊ばら!」と無念の声を上げ、息絶えた・・・。伊東の遺体は新選組によって100m先の油小路七条の辻まで運ばれ、御陵衛士をおびき寄せるための囮にされた・・・。

本光寺の門前(鉄門の中)に「伊東甲子太郎他数名殉難の地」の石碑と説明版がある。伊東が最期を遂げた山門に「説明書き1部50円」と張り紙が出ていたので、ドキドキしながらチャイムを押した。・・・待つことしばし、尼僧のご住職が説明書を持ってきて下さった。伊東が絶命した石碑を見たい旨を告げると、山門を開けて下さった。門を入って右手にお墓のような大きな石碑がある。「南無妙法蓮華経」と流麗な筆致で題目が刻まれていた。この碑は幕末の当時は門前の藪の中にあったが、後、山門が道路寄りに移動し、今では門の中に入っている。
  • 住所:下京区油小路通木津屋橋上ル
  • 説明書:50円(寺内は非公開)


伊東甲子太郎遭難の地(いとうかしたろうそうなんのち) *
伊東甲子太郎は「南無妙法蓮華経」の碑にもたれて息絶えた。
本光寺を出て油小路を南へすぐ。木津屋橋通を西に入ったところ。 「ここで伊東甲子太郎が襲われました。」 現在は散髪屋や民家が建ち並ぶ通りだ。

当時は禁門の変による火災で付近は焼け野原になっており、焼け跡に板囲いがしてあったという。伊東は板囲いの中から突然繰り出された槍に喉を刺されたそうだが、今の平和そうな町並みに惨劇の面影はない。
  • 住所:下京区油小路木津屋橋西入ル


近藤勇妾宅跡(こんどういさみしょうたくあと) *
近藤勇妾宅跡は安寧尋常小学校の辺り。(写真は現在の元安寧小)今は堀川通の中央辺り。
新選組の伍長以上は屯所の近くに家を借りて「休息所」と称し、愛人を住まわせ、そこから通勤することが許されていた。局長近藤勇は大坂織屋の深雪太夫を落籍させて醒ヶ井通木津屋橋下ルに住んでいた。深雪の死後は妹のお孝と共に同じ場所に住んだ。

第二次世界大戦中の建物疎開により堀川通が拡張された。この時安寧尋常小学校は西に移動されたそうだ。御方紺屋町にお住まいだった川崎泰市氏の作成された戦前の七条堀川付近の地図を見ると、近藤勇の妾宅は移動前の安寧尋常小学校の西南角に当たる。住所で言うと「醒ヶ井通木津屋橋下ル御方紺屋町494番地」。今は堀川塩小路上ル。堀川通りのど真ん中。丁度陸橋がかかっている辺りだろうか?

伊東甲子太郎は近藤勇の妾宅に招かれた後に近くで殺されている。又、不動堂屯所を引き払った後も、沖田総司がこの休息所で療養していると聞きつけて御陵衛士の残党が襲撃したり、近藤勇が二条城に行った帰りにこの休息所に立ち寄ったり(帰りに伏見で御陵衛士に襲撃されている。)と長い間使われていたようだ。
  • 住所:下京区堀川通塩小路上ル


不動堂村屯所跡 (ふどうどうむらとんしょあと)
不動堂村屯所跡は今のリーガロイヤルホテル?

*
資生堂ビルの辺りという説もある。
慶応3(1867)年6月15日、新選組は屯所を西本願寺から不動堂村に移した。今のリーガロイヤルホテルの辺りが不動堂村の屯所に当たります。他にも堀川通りを挟んで東側、今の資生堂ビルの辺り、という説もある。 今のリーガロイヤルの辺りだとすると、西本願寺から堀川通を南に700mくらい下がったご近所の引っ越しだ。新屯所の近所には近藤勇の妾宅がある。

西本願寺では防備が薄いと心配した新選組が寺院側に移転を申し入れ、兼ねてから新選組には大迷惑していた西本願寺は追い出すチャンスとばかりに、新屯所建築費用まで負担してくれた。敷地は約1万平方メートルで外観は大名屋敷のようだったという。中央に大広間、その両側に大廊下があり、廊下に沿ってに隊士達の部屋、近藤・土方らの居間が建ち並び、武芸道場、客間、馬屋、物見櫓もあった。まるで寺院のような広い台所や30人が一度に入れる風呂まであったという。

これほど立派な屯所を建てたにも関わらず、約半年後に新選組は不動堂村を撤退し、伏見の奉行所に移っている。幕府勢力の衰退が背景にあるとはいえ、何とももったいないような気がする・・・。
  • 住所:下京区堀川通塩小路


不動堂 明王院(ふどうどう みょうおういん) 不動堂明王院
不動堂村の名前の由来になった不動堂明王院。

堀川通にかかる歩道橋を渡る。道祖神社の隣に不動堂・明王院がある。新選組最後の屯所のあった地・不動堂村の名前の由来になった寺。軒には「新撰組まぼろしの屯所」と書かれた提灯がかっている。
薄暗いお堂の中には、不動明王、弘法大師、役行者が祀られている。

禁門の変の時、この辺りも焼け出されましたが、井戸の中にお不動さんが入っていたので、奇跡的に助かったんです。
新選組が活躍した禁門の変で見事に焼け残ったお不動さんゆかりの地が、後に新選組の屯所となった・・・。

  • 住所:下京区油小路通塩小路下る南不動堂町


※このページの掲載情報は、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。
参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。