平家物語
| 東山散策 | 嵯峨野散策 | その他の史蹟 | 人名辞典 | 年表 |
| 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。 奢れる人も久しからず。ただ春の夜の夢の如し。 猛き者も遂には亡びぬ。 ひとへに風の前の塵に同じ。 の冒頭部分で有名な平家物語。清盛をはじめとした平家一族の隆盛から源平の戦い、平家の滅亡までを壮大に描いた軍記物語である。もともとは琵琶法師によって語られることが多かった。平家琵琶の哀切な調べを想像しながら、『平家物語』の史蹟が密集している東山周辺を歩いてみた。 |
![]() |
| おすすめコース東山散策 | |
![]() |
JR京阪東福寺駅 ↓(徒歩10分) |
| 即成院(那須与一さん) ↓(徒歩5分) |
|
| 新熊野神社 ↓(徒歩7分) |
|
| 法住寺 ↓(徒歩1分) |
|
| 三十三間堂 ↓(徒歩15分) |
|
| 六波羅蜜寺 ↓(徒歩15分) |
|
| 八坂の塔 ↓(徒歩5分) |
|
| 清水寺 ↓(徒歩10分) |
|
| 清閑寺 ↓(徒歩30分) |
|
| 長楽寺 ↓(徒歩5分) |
|
| 八坂神社 ↓(徒歩2分) 市バス祗園バス停 |
|
| 即成院 那須与市さん(そくじょういん・なすのよいちさん)~那須与市の墓~ | ![]() 屋内にある那須与市の墓は 巨大な石塔 ![]() 那須与市と扇の的の 手ぬぐい500円 |
東福寺駅より、 九条通と東大路通が交差する斜めの通りを上がって、泉涌寺道の標識が見えたら右へ曲がる。坂道を登って、泉涌寺総門の手前に鳳凰の付いた門が見える。ここが即成院。 泉涌寺塔頭の即成院は屋島の戦の「扇の的」の話で有名な弓の名手・那須与市の墓があることから通称「那須与市さん」と呼ばれている。 那須与市の墓は広い境内の奥にある。細い参道を通ってたどり着くのは「那須与市の墓」と書かれた建物。与市の墓は何と屋内にある。高さ約2mの巨大な石塔だ。「那須與市宗高の墓」と記された石碑と石灯籠も並んでいる。与市が扇の的を見事射止めたところから、「入試合格」「所願成就」にもご利益があるらしく、「○×大学合格」の絵馬も沢山架けてあった。 本堂では本尊の阿弥陀如来と廿五菩薩が拝観できる。十月の第三日曜に行われるは人間が菩薩の仮面を被り境内を練り歩く「廿五菩薩お練り供養」が有名な即成院。なぜここに那須与市の墓があるのかとお寺の方に聞いてみたところ・・・。 勝利後、即成院(当時は伏見桃山にあった)に参篭し出家。34歳で病死するまで一心に阿弥陀に祈りを捧げたという。弓の名手が出家していたとは驚きだ。 即成院でのご朱印は与市にちなんで扇の形だ。弓を射る与市の姿と扇の的を染め抜いたご朱印入りの手ぬぐい(500円)が販売されているのでお土産にいかが?
|
| 新熊野神社(いまくまのじんじゃ) ~後白河上皇のお手植えの樟~ | ![]() 後白河法皇手植えの樟は 「樟大明神」として祀られている。(後方) ![]() 境内に祀られた熊野三山の土 |
| 泉涌寺道に戻って今熊野商店街を北へ行くと程なく大きな樟(くすのき)を祀った神社が見えてくる。ここが新熊野神社。 後白河法皇が紀州・熊野三山の祭神を勧請して建てた神社。熱心な熊野信者だった後白河院を偲び、境内に熊野三山の土が盛られていた。 後白河お手植えの大樟は創建当初(1160年)からのものだ。なるほど、大きなわけだ。もともとは後白河の住んでいた法住寺殿の敷地内にあり、平清盛が造営したもの。 高倉天皇が中宮徳子の安産を祈願して以来、安産の神としても知られている。室町時代には世阿弥が足利義満に見出されたのもこの神社。 天皇家や平家、将軍家の栄枯盛衰の歴史を境内の大樟だけが知っている・・・。
|
| 法住寺(ほうじゅうじ)~法住寺殿・後白河天皇陵~ | ![]() 法住寺龍宮門。門前には 「法住寺殿跡」の石碑が建つ。 奥には後白河天皇陵がある。 |
新熊野神社を出て二筋北の道を東に折れ、三十三間堂の門を入って右手に中国風の門を構えているのが法住寺。 この辺りは後白河法皇の離宮・法住寺殿のあったところ。法住寺殿は七条通、泉涌寺道、大和大路通、東山山麓に囲まれた広大な地域を占めていたが、木曽義仲の焼き討ちに遭って離宮は焼失。(『平家物語巻八』法住寺合戦に詳しい)。この時、法皇が危うく命を落としかけたところを天台座主の明雲大僧正が身代わりとなり、敵の矢に倒れた。「本尊の不動明王が明雲となり、私の身代わりとなってくれた。」と法皇は涙したという。この身代わり不動は後白河法皇の念持仏として、今でも法住寺に祀られている。 寺内には後白河法皇像が祀られている。(5/1~5/7のみ公開)普段から見られるのは四十七士と浅野内匠頭の木像。忠臣蔵ゆかりの史跡でもあるのだ。 また、10月には後白河法皇が愛好したとされる今様の歌を保存し、復興するため今様歌合せの会が行われる。白拍子装束や狩衣に身を包んだ人々が今様を再現する様は実に雅やか。 寺の隣には後白河法皇の法住寺陵に続く参道があり、この奥に、法皇が眠っている。
|
| 三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)~法住寺殿跡碑・平清盛造営~ | ![]() 境内にひっそりと建つ 法住寺殿跡碑。 |
法住寺の向かいは1001体の千手観音像で有名な三十三間堂。しかし、この観音像は鎌倉時代に入ってから仏師・湛慶一派が作ったもので、『平家物語』の時代のものではない。 三十三間堂は正式名称を蓮華王院といい、長寛2(1164)年、平清盛が後白河法皇の命を受け、離宮・法住寺殿内の私堂として建立されたものだった。五重塔、不動堂、北斗堂などの諸堂を配した壮麗なただずまいであったというが、元暦2(1185)年、地震によって倒壊した。その後、源頼朝によって再興されたが、58年後に焼失。現在の本堂は文永3(1266)年のものである。 境内の松の木の下に「此附近 法住寺殿址」という比較的新しい石碑が建っている。自分と同じ顔が必ず1体見つかるという観音像や内陣の柱が三十三間もあるという長ーいお堂に目を奪われがちだが、境内にひっそりと建つ法住寺殿跡碑もお見逃しなく。
|
| 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)~平氏居館跡・平清盛像・清盛塚・阿古屋塚~ | ![]() 六波羅蜜寺外観 ![]() 六波羅蜜寺境内に 並んで建つ平清盛塚 (向かって左)と阿古屋塚(右) |
大和大路通を北へ15分ほど歩くと辿り着くのが六波羅蜜寺。 この附近・六波羅は清盛をはじめ平家の主だった人々が邸宅を構えていた。清盛を「六波羅殿」と呼ぶのもこのため。鎌倉時代には幕府が六波羅探題を置いた。まさに源平盛衰の中心地。 門を入ってまず目に付くのが平清盛像と開祖・空也上人像の写真。像は宝物館に安置してある。鎌倉時代に作られたという清盛像は僧形。鋭い目で巻物を読んでいる。南無阿弥陀仏の仏を吐き出している空也像と並んで教科書でもお馴染みだ。 かつて平家の居館が立ち並んだ六波羅界隈。清盛、空也、弁財天、吉祥天、阿古屋・・・。男性と女性、聖なる者と俗なる者が混在して祀られている不思議なお寺。全ての者に共通するのは芯の強さなのかもしれない・・・。
|
| 八坂の塔(やさかのとう)~木曽義仲の首塚~ | ![]() 東山のシンボル八坂の塔 ![]() 境内に建つ木曽義仲首塚。 |
六波羅蜜寺を出て東へ。東大路通に突き当たったら二筋北の八坂塔の下商店街を東へ。軒下に魔除けのくくり猿を吊るす素朴な商店街を抜け、八坂塔・法観寺へ。 祇園坂、長楽寺坂、清水坂、三年坂など、八つの坂があったのでこの辺りは「八坂」と呼ばれるようになったという。聖徳太子創建と言われる法観寺。中心部には飛鳥時代の礎石が残る。 八坂塔・法観寺の境内には何故か木曽義仲の首塚がある。「朝日将軍 木曽義仲塚」と彫られた比較的新しい石碑の後ろに、小さな五輪の塔が鎮座している。倶利加羅峠の戦いで平氏を破った豪快な「朝日将軍」義仲のイメージに似合わぬかわいい石塔に少し拍子抜けする。 それにしても近江国(今の滋賀県大津市)の粟津で敗死した義仲の首塚が何故京都に?受付の方に伺ったところ、近江国で討たれた義仲の首は京に運ばれ、さらし首にされた。それを見た義仲の家来(妻の一人の山吹という説もあり)が首を持ち帰り、八坂の郷に手厚く葬ったそうだ。義仲の首塚は1997年まで高台寺近くの旅館の庭にあったが、旅館の廃業に伴い、近所の公園を経て、由緒ある法観寺境内に移されたそうだ。流転の歴史をたどって来た義仲の首塚。法観寺の境内が安住の地になることを祈るばかりだ。
|
| 清水寺(きよみずでら)~清水寺炎上~ | |
三年坂を上って、修学旅行生で賑わう清水坂を登りきると清水寺に辿り着く。 ご本尊の観音様のご開帳や青龍会で盛り上がった昨年ほどの盛り上がりはないが(※このページが作成された2001年の情報です)、清水の舞台や音羽の滝の賑わいは相変わらずだ。スリル満点で大好評だった随求堂の胎内めぐり(100円)も再開している。 平安初期に坂上田村麻呂によって創建された清水寺だが、これまで、何度も火災に遭っている。『平家物語 巻一』にも清水炎上の下りが記されている。永万元(1165)年、延暦寺の僧兵達が、ライバル・興福寺の末寺であった清水寺を焼き討ちした。延暦寺の僧兵達が大挙して京に向かったとの報を受け、「後白河法皇が僧兵に命じて、平家を追討するつもりだ」との噂が流れた。これは結局噂に過ぎず、僧兵達は六波羅には向かわず、近くの清水寺を襲ったわけだが、後白河と平氏の仲が険悪になってきたことを表すエピソードであろう。 去年のご開帳に合わせて諸堂が改修、落慶され、新しくなりつつある清水寺。現在も仁王門が五色の幕をかぶり、改修中だ。伝統と新生を程よく調和させ、いつまでも元気なスポットであってほしい。
| ![]() 人々で賑わう音羽の滝 ![]() 清閑寺に向かう途中の 子安の塔 |
| 清閑寺(せいかんじ)~高倉天皇陵・小督の墓~ | |
子安の塔を通って清水寺の駐車場を抜けると風雅な山道に入る。 清水から清閑寺に向かう山道を「歌の中山」という。10分位で「高倉天皇・六條天皇陵参道」という石碑に辿り着く。更に小山を越えると高倉天皇後清閑寺陵と甥に当たる六條天皇の清閑寺陵だ。菊の御紋の木の扉の向こうに、21歳で失意のまま亡くなった高倉天皇が眠っている。そしてその傍らには清盛によって2度も愛を引き裂かれた小督局の墓もあるという。 天皇陵脇の石段を上って、清閑寺の門をくぐると美しい景色が広がる。素朴ながらもよく手入れされた庭。立てば京都の町が扇を開いたように眺められる「要石」。苔の緑と椿の赤のコントラストも美しい。秋は燃えるような紅葉に染まる。四季折々の自然の美しさが静かに楽しめる清閑寺は京都の隠れた名所だろう。 庭の一角の宝篋院塔は小督の供養塔と言われている。小督は自分の娘婿・高倉の愛を奪った者として清盛の怒りにふれ、清閑寺で出家させられたそうだ。(『平家』ではその後、嵯峨野に住んだとあるが?)高倉上皇は小督と2度までも引き裂かれ、心労が重なり、「私が死んだら小督のいる清閑寺に葬ってくれ。」と遺言して21歳で亡くなった。小督は高倉の菩提を弔い続け、死後は上皇の隣に葬られたという。 何度引き裂かれても、最後は寄り添って葬られた高倉と小督。その愛を象徴するような梅の花が咲き始めていた。
|
![]() 高倉天皇後清閑寺陵。 隣には小督の墓もあるという。 ![]() 清閑寺境内の小督の供養塔 |
| 長楽寺(ちょうらくじ)~建礼門院出家の寺~ | |
清閑寺から元来た道を通って清水寺に戻る。ここから清水坂-三年坂-二年坂-石塀小路を通って長楽寺、八坂神社に向かうわけだが、1.7kmくらいの道のり。素敵なお店が軒を連ねているので、覗いていくのも楽しいだろう。 円山公園脇の坂を登りきると見えてくるのが建礼門院徳子ゆかりの長楽寺。清盛の娘・徳子は壇ノ浦で子の安徳天皇らと共に入水したが、長い髪が熊手にからみつき、源義経らに助けられた。因縁の黒髪を剃り落とし、尼になったのがこの長楽寺だ。 徳子は剃髪の際、お布施を何も持っていなかったため、わが子安徳天皇の形見の直衣を幡に縫い直し、上人に渡したという。寺内にはこの幡を復元したものが展示されている。一番印象的だったのが、建礼門院像だ。長楽寺蔵の建礼門院29歳の画像(普段は非公開)をモデルに近年作られたものだが、憂いを帯びた瞳とバックに架けてある「祇園精舎の鐘の声・・・」の平家物語の冒頭の書の掛け軸に心を絞めつけられる。像の横には無邪気に遊ぶ安徳天皇の絵が。 境内には建礼門院の供養塔と伝わる十三重の石塔がひっそりと建っている。ここには、彼女が剃髪した時の黒髪が埋めてあるそうだ。収蔵庫には後白河法皇が寂光院の建礼門院を訪ねた「大原御幸」の大きな絵が飾ってある。 毎年5月4、5日には筑前琵琶でかなでる『平家物語』の集い(有料)が行われるそうだ。建礼門院ゆかりの寺で聞く『平家』の調べは格別の趣があるだろう。 建礼門院は長楽寺より大原の寂光院に移り、安徳天皇や平家一門の菩提を弔いながら余生を過ごした。
|
![]() 長楽寺境内の 建礼門院供養塔。 |
| 八坂神社(やさかじんじゃ)~忠盛灯籠~ | |
長楽寺坂を下りて右手に折れ、円山公園に入る。祇園祭の山鉾収納館の前を通って鳥居をくぐると八坂神社だ。 拝殿の東側に「忠盛灯篭」と書かれた一基の石灯篭が建っている。 白河上皇は寵愛する祇園女御の所に通う途中、化け物に遭った。お供の平忠盛(清盛の父)が化け物の正体を灯篭に火をつけようとした法師と見破った。上皇は忠盛の冷静さを褒め称え、褒美として祇園女御を賜った。この時、彼女は妊娠していてその子が清盛だったと『平家物語』は伝えている。 この時の灯篭が八坂神社境内の忠盛灯篭とされている。実際には忠盛の時代よりも少し後の鎌倉期のもの。しかし、夜、灯りがともったら、化け物と間違えるかもしれない雰囲気を持っている。
|
![]() 八坂神社外観。 インドの祇園精舎にちなんで昔は 「祇園社」と呼ばれていたそうだ ![]() 八坂神社境内奥の忠盛灯篭。 忠盛は化け物の正体を見破った褒美に 白河上皇よ祇園女御を下賜された。 |
※このページの掲載情報は、歴史上の事実とは異なる場合がございますので、ご了承下さい。
参考としてご覧頂きますようお願い申し上げます。




















