鹿苑寺(金閣寺)について
相国寺の塔頭寺院の一つで、正式名称は鹿苑寺といい、舎利殿「金閣」が特に有名なため金閣寺と呼ばれます。
室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。三つの層ごとに造りが違い、二層・三層は漆の上から純金の箔が貼られています。金閣前の鏡湖池に映る「逆さ金閣」もまた美しい。
室町時代の代表的な様式で作られている庭園、数寄屋造りの茶席「夕佳亭」なども見どころです。
境内マップ
- 住所:北区金閣寺町1
- アクセス:市バス101,204,205「金閣寺道」12,59「金閣寺前」
- 拝観時間:9:00~17:00
- 拝観料金:400円
- 金閣寺ホームページ
金閣
鹿苑寺の通称「金閣」の第一層は法水院と呼ばれ、南面には上半分が開放できる半蔀が立てられた平安時代の寝殿造りになっています。内部は正面に宝冠釈迦如来像が安置されており、他の層が漆の上から金箔が張ってあるのとは異なり初層には金箔は貼られず白木になっています。
第二層は潮音洞と呼ばれる武家造で観音信仰の場で、床と壁は黒漆塗りになっています。須弥壇には岩屋観音像が座しており、それを守護する四天王像が周りに安置され、天井には飛天が描かれています。外側は壁と高欄が金箔張りで、縁の天井には鳳凰と龍が描かれています。四方は横方向に桟が走る舞良戸や板壁等に囲まれています。昭和62年に松久宗琳が製作、焼失前の状態に復元されました。
第三層は究竟頂と呼ばれ、正面の扁額に書かれています。唐様(中国風)禅宗仏殿造の層を最上階に置く事で、出家した義満が公武の上に立つ事を暗示したといいます。内部中央に仏舎利を安置し、床は黒漆塗りとなっています。天井や壁には金が押され、内側に明障子を入れた火灯窓によって内部は光り輝いています。屋根は椹の薄い板を何枚も重ねた柿葺。
昭和25(1950)年に全焼、現在の舎利殿、金閣は昭和30年に復元されました。昭和61~62年の大改修の際には、以前の5倍の金箔で覆われました。その純金の総量は約20㎏だったそうです。金箔は一部が平成14~15年に貼り替えられ、更に平成15年には屋根の葺き替えが行われました。
鏡湖池
金閣の輝きを鏡の様に映す約2千坪の池で、その名の通り鏡の様に澄み切った鏡湖池に映る金閣は「逆さ金閣」と呼ばれます。葦原島等の大小の石や、細川石、畠山石、赤松石といったかつての有力武将達が競って献上した奇岩名石が各所に配されています。池の東南端にはかつて宴を催すための釣殿があったそうです。
畠山石:管領(将軍の補佐役。細川・畠山・斯波の三家が交代で務めた)畠山家が寄進。二つの岩を重ねて、富士山に見立てています。
赤松石:この石を献上した赤松家は、管領に次ぐ侍所の長官を務めた四家のひとつです。
釈迦三尊石:葦原島の中心にあり、金閣と向き合う様に置いてあります。釈迦と両脇侍の三尊仏を三つの石で表現しています。
細川石:金閣内部から観て葦原島の左端にある突き出た様な奇石。管領・細川頼之が献上しました。彼は義満から最も頼りにされていたそうです。
九山八海石:「九山八海」とは、須弥山を囲む九つの山と八つの海から成るという仏教の世界観です。これを象徴する霊石を、義満は中国から運ばせたとか。その名石との評判は洛中においても高く、豊臣秀吉の聚楽第造営の際の名石狩りから奇跡的に逃れました。
鳳凰
金閣の屋根の上に南を向いて立っている中国の伝説上の鳥で、聖なる天子の使者、めでたいものとされています。現在のものは昭和時代に設置されたもので、室町時代の初代旧鳳凰は尾が折れているものの、昭和25年の火災を逃れたため、創建時の金閣の遺品として現存しています。銅製ですが、当初は金箔で覆われ、義満の権力を象徴していたと考えられます。
夜泊石(よどまりいし)
金閣の東側、船着きに一直線上に並んでいる4つの石。舟を繋ぎ止めるのに使用されていたと言われています。そのものが港に泊まる舟の様にも見えます。
漱清
金閣の西側から池に突き出しています。下層の縁と繋がり、西側と北側には腰掛けが付いており、床下は舟泊にもなっていました。
亀島、鶴島
不老不死で神通力を持つ仙人を目指す中国古来の「神仙蓬莱思想」から、縁起の良いとされる鶴や亀を模した島を置いています。
葦原島
日本国をかたどった島で、「豊葦原瑞穂国」が名前の由来です。
陸舟(りくしゅう・おかふね)の松
方丈の北側にある樹齢約600年の松の古木。義満の盆栽から移植されたものと伝わっています。その名の通り帆掛け船の形をしており、西を向いて西方浄土に向かう思いが表現されていると言われています。
方丈(客殿)
方丈は金閣寺の本堂にあたり、仏間に本尊・聖観世音菩薩坐像、夢窓国師像、足利義満像、文雅慶彦像等が安置されています。江戸時代の建造で狩野派一門の筆による襖絵、枯山水の庭園、後水尾天皇手植えと伝わるツバキがあります。平成19に終了した解体修理の際に近代日本画家・石踊達哉氏・森田りえ子氏による杉戸絵が新作されました。
聖(しょう)観世音菩薩坐像
金閣寺の本尊。聖観音は1面2臂の観音のこと。十一面観音といった変化観音の基本形とも言える形式です。頭上に髻(もとどり)を結い、毛筋彫りで頭髪を表現、白豪相(びゃくごうそう)を表しています。脇侍に梵天・帝釈天が安置されています。
庫裏
庫裏はお寺の台所。屋根上に大きな煙出しがあります。江戸時代の建造物で切妻造桟瓦葺き、禅宗庫裏の中でも大規模なものです。内部には大きな土間と板の間があり、吹き抜けがあります。廊下は方丈へ繋がっています。昭和62年頃までは宿坊として使われていました。
浄蔵貴所の墓
浄蔵は平安中期の僧侶。948年に八坂の塔が西に傾いたときに、塔に向かって祈念し法力で元に戻したという話が伝わっています。
また、父・三善清行の危篤の知らせを聞き、急いで京に帰った際に橋のところで父の葬列に出会い、棺にすがって甦らせたことから、その橋は「戻橋」と呼ばれ、「一条戻橋」の名前の由来となりました。浄蔵は他にも多くの霊験談が伝えられています。
鐘楼
鐘は西園寺家由来のもので、鎌倉期に造られたと伝えられています。
一文字蹲踞(船形石)
この石を切り出した際に楔を入れた穴(矢跡)が残り、力強い印象です。
総門
金閣寺の表門。丸瓦には寺紋「五七桐」が刻まれています。桐紋は天皇家から下賜された由緒ある家紋です。門から見える紅葉は、秋に訪れる参拝者の目のご馳走です。
参道
150m程の参道の両脇には、ヒサカキの垣根や山茶花、楓等の木々が秋には美しい小道を描きます。
馬繋
駐車場ならぬ「駐馬場」として使用されていたのかもしれません。
榊雲
金閣寺の鎮守・春日明神を祀った古廟榊雲(しんうん)があります。
銀河泉
義満が茶の水に使用したと伝わり、今でも清水が湧き出ています。
巌下水(がんかすい)
義満が手洗いに用いたと言われています。
金閣寺垣
龍門の滝の左、安民沢へと続く小道の石段・虎渓橋(こけいきょう)の両側の低い竹垣のこと。垣の上部に3本の割竹を被せているのが特徴で、格調の高い仕切り垣として広く知られています。境内の夕佳亭にも設けられています。
龍門の滝
2,3mの滝を一段落としにしてあり、その前には傾いた鯉魚石(りぎょせき)が置かれ、登龍門(龍門の滝を鯉が登り切ると龍に変身したという中国の故事)に因んでいます。また、この辺りはかつて天鏡閣や泉殿等があったと推定されています。
安民沢
龍門の滝を越え、坂道を上ったところにある池。連日の日照りでも涸れなかったため雨乞いの場にもなっていました。雨賜沢・望雲沢とも言います。鎌倉時代に太政大臣・西園寺公経の別荘があったところで、安民沢はその頃からあったようです。
白蛇塚
安民沢の中の小島に立つ多層石塔。西園寺家の鎮守等と伝えられ、同家の遺跡であるとされています。
白蛇は弁財天の使い。弁財天は智慧弁舌芸能福徳を与えてくれる神様で、家運を盛んにしてくれるといいます。
夕佳亭(せっかてい)
鳳林承章が後水尾法皇を迎えるため、江戸時代の茶道家・金森宗和に造らせたという茶室。眼下の金閣が夕日に映える景色がことに佳(よ)いので、その名が付きました。焼失後は明治7(1874)年に再建されました。
正面にある「難を転じる」南天の床柱や右側にある三角の棚・萩の違い棚がユニークで、有名です。間の古木は鶯宿梅(おうしゅくばい)。奥の二畳は天皇の後座所であった上段の間です。
三畳で手前に竈がある土間、奥に勝手をとった草庵風、屋根は茅葺きです。
貴人榻(きじんとう)
その昔高貴な人が腰掛けた石。室町幕府より移築されたものだそうです。屋根付き!
富士型手水鉢
夕佳亭前にあります。義満の孫で銀閣寺を建てた八代将軍・足利義政が愛用していたものと言われています。義政は、毎年10月15日の紅葉の頃に金閣寺に参詣していました。色付いた紅葉に囲まれた金閣の美しさを「四面皆山(、楓葉錦のごとし」と称えています。
不動堂
弘法大師の作と伝わる秘仏の石不動明王は、節分と8/16の開扉法要の際に開帳されます。この像を拝むと、首から上の病が治ると伝わっています。開扉法要では、本山の相国寺の寺僧が祈祷の後、人々の願いが書かれた護摩木を焚きます。
不動明王立像(重文)
不動堂には石不動の他にこの木像も祀られています。鎌倉期の1225年に創建の北山第の西園寺護摩本堂として造られ、室町以降ここに安置されています。かつては毛が貼り付けられており、着装していたとされる珍しいものです。
金閣寺エピソード
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金閣寺が舞台となる小説 三島由紀夫の「金閣寺」と水上勉の「金閣炎上」
昭和25年7月2日未明、国宝であった金閣は鹿苑寺の徒弟の放火によって炎上、焼失しました。犯人はその動機を「金閣寺の美しさに嫉妬した」と語っていたそうです。
この金閣寺の放火事件をモチーフにしている事で、よく比較される2つの小説。
事件の6年後に書いた三島由紀夫はこの犯人の青年僧を語り口に、その異常な精神状態を華麗な文体で綴りながら「美」とは何かを追求し、一方で水上勉は、青年僧と同郷で境遇が似ており、顔見知りでもあった彼への鎮魂の思いを作中に滲ませています。放火事件が起こった当時の住職は、再建勧進のため托鉢行に出ました。それに対し多くの人が浄財を納めたといいます。 新しい金閣は昭和30年に完成し、その後も度々修復され焼失前のものより創建時の姿に近くなったといいます。他に金閣寺が登場する小説には大佛次郎の「帰郷」があり、北原白秋は金閣寺庭園を「金閣寺み冬さむけくふる雨あしの池の上にして」と詠っています。
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息子・義持に解体された義満の極楽浄土
金閣寺(北山鹿苑寺)は1397年に足利義満が邸宅・北山殿として造営し、政治や外交の場として利用しました。
ひときわ黄金色に輝く金閣を目の当たりにした客人達は、さぞ目を丸くし圧倒させられた事でしょう。初層に貴族好みの寝殿造り、二層目に武家造、最上層に仏殿造を置いた金閣は、公武の頂点に立った者の権威の象徴でした。
出家した義満はより自由な身分となり、寺社勢力を支配する地位をも得ようとしたと言われています。
そんな栄光の陰で、義満と息子の義持の間には確執があったようです。1394年に義満はまだ9歳だった義持に将軍職を譲って出家しました。しかしながら実権は握ったままで、義持は名ばかりの将軍でした。
また、愛妾の子・義嗣を義満が偏愛していた事で、その不満は更に募っていたようです。
義満が北山殿に後小松天皇を迎え盛大な宴を催した際、当時15歳だった義嗣が接待役を務めました。義嗣が天皇より盃を受けた事で、「義満の後継者は義嗣」という声も世間に広まったようです。義持にとっては屈辱的な出来事だったでしょう。その2ヶ月後に義満が51歳で急逝した後、義持の命で北山殿は建物の大半が解体されてしまいます。残った金閣と堂等は禅刹として南禅寺や建仁寺等の諸寺に移築されました。
後に謀反を企てた義嗣は義持に討たれ、移築された建物は応仁の乱等で焼失し、残されたのは金閣のみとなりました。 -
創建当時の金閣寺はどんな感じ?
有名な金閣は、義満が出家後に舎利殿として建立したもので、義満が暮らした北山殿(金閣寺)には他にも天鏡閣と呼ばれた二階建ての会所や紫宸殿、護摩堂、公卿間、泉殿、七仏薬師像を祀る看雪亭といった多くの殿舎が建ち並んでいました。その敷地は東に紙屋川、西に衣笠山、南は現在駐車場となっている辺りまで至ったそうです。
相国寺の第42世住持・瑞渓周鳳は日記「臥雲日件録」に、楼閣は夜空の星の様に東西南北に点在し、その華やかさは天より降り地より湧き出たようであったと残しています。また、義満の家臣のひとりは「極楽浄土に勝る美しさ」と称えたそうです。また、金閣の北側にあったという天鏡閣は金閣と橋で結ばれており、そこを渡る時には虚空を歩いているような心地がしたといいます。
その絢爛豪華さは、当時の京の民が大飢饉に苦しみ、鴨川が死体で埋まる程の地獄絵図の様な光景とは全く対照的だったのかもしれません。